ことばの光

小平キリスト教会の週報に書かれている
ことばの光です。

  
  

****ことばの光******11月27日 

 

ダビデの子イエス、我をあわれみたまへ 

 

ナザレのイエスなりと聞き、叫び出し言ふ「ダビデの子イエスよ、我をあわれみたまへ」 マルコ 10:47 

 


エリコでの伝道のわざを終え、イエスと弟子たちがエリコから出た時、道ばたに盲人のこじきでバルテマイという者がすわっていた。群集のある者が「ナザレのイエスだ。」と叫ぶのを聞いたバルテマイは突然「ダビデの子イエスさま。私をあわれんでください。」と叫びだした。バルテマイが大声で叫ぶのを聞いた弟子たちや大ぜいの者たちが叫ぶのを制止しおうとバルテマイをたしなめた。その圧力に屈せずバルテマイはさらにますます大声で叫び続けた。ナザレのイエスさまは苦しむ者や病める者をあわれみいやされる方だと聞いていたバルテマイは、そのイエス様が今自分の近くにいるならこの機会をのがしてはならないとして必死に叫び続けた。彼の真剣で熱烈な求めを聞いたイエス・キリストは立ち止まり彼を自分のもとに叫んで来るように弟子たちに語られた。 

イエスのもとへ行ったバルテマイに イエス・キリストは「何をしてほしいのか」と聞かれバルテマイは「目が見えるようになることです。」と答えた。イエス・キリストは「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言ったすぐ後でバルテマイの目は見えるようになりイエスの行かれるところについて行った。「主の御名を叫び求める者は、だれでも救われる」(ローマ 10:13) 



 

******ことばの光******11月20日 

 

黙れ、静まれ 

 

イエスは起き上って風を𠮟りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。     マルコ 4:39 

 


ガリラヤ湖のほとりで群集に神のみことばを語ったイエス・キリストは、夕方弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と声をかけたので弟子たちは舟にイエスを乗せて向こう岸に向かった。向こう岸のゲラサ人の地での伝道と向こう岸に渡る途上で弟子たちの信仰の訓練をすることが向こう岸に渡るイエス・キリストの目的であった。進み出した舟はほどなく激しい突風により波が舟の中に入りあわや沈みそうになった。恐れに満たされた弟子たちは眠っていたイエス・キリストを起こし助けを求めた。 

イエス・キリストは起き上がり風を𠮟りつけ湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。イエス・キリストの口から発せられたことばの権威。そのことばは猛威をふるう自然界の風、波をも静まらせた。神がことばを発せられると被造物は力を失い神の下に服するのである。創世記冒頭の神のことば、「光、あれ。」すると光があった。(創世記1:3)が思い起こされる。 

信仰者のうちにたち現われる神から引き離そうとするサタンの誘惑に対して「黙れ。静まれ」とのイエス・キリストのことばをもって追い払おうではないか。 




*******ことばの光******11月13日 

 

ヒゼキヤ王がイスラエルに呼びかけたこと 

 

イスラエルの子らよ、アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち返りなさい。そうすれば、主は、アッシリアの王たちの手を逃れて残ったあなたがたのところに帰ってくださいます。 歴代誌 Ⅱ 30:6 

 

偶像礼拝をして悪名高かった父アハズの死後、ユダの王となったヒゼキヤ王がまずしたことは閉められて使用していなかったエルサレムの神殿を開け聖別し祭司レビ人たちもその身を聖別して神殿において主なる神を礼拝することを行なった。次にダビデ、ソロモン王以降久しく行なっていなかったイスラエルの民にとって重要な過越の祭を行なうことを神に導かれて決定した。当時イスラエルは南のユダと北のイスラエルに分かれていた。北イスラエルはBC722年アッシリヤによって侵略され多くの民はアッシリヤに強制的に連れて行かれ、また多くのアッシリヤ人が北イスラエルに来て居住した。このような時ヒゼキヤ王は今分かれていても元は同じ民族であるので、アッシリヤの支配下にあるイスラエルの人々にも手紙を通してエルサレムに来て共に過越の祭を祝おうではないかと呼びかけた。呼びかけの文の冒頭に「主に立ち返りなさい」と記した。ヒゼキヤ王は偶像礼拝の罪を悔い改め主を新たに信じることがすべての行動の基だと認識していたからである。ヒゼキヤ王の呼びかけに応じて北イスラエルからまた、ユダから多くの人がエルサレムに集った。過越の祭に集った人々に主よりの大いなる喜びと感謝があふれたのであった。 





 

*******ことばの光****** 11月6日

 

まことのいのち 

 

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。 

 マタイの福音書 16:26 

 

アメリカの大富豪ロックフェラは貧しい行商人の子として育ったが青年時代に貧しさから脱出して金持ちなる決心をして働き独立して実業家としての出発点に立ちました。三十代でオハイオ・スタンダード石油会社を設立、四十代には鉄道会社と企業合同し、合衆国精油能力の90%以上を支配し大金持ちとなりました。彼のモットーは「自分のため、金のため」でした。多くもうけるために雇い人や商売相手に対して情け容赦もなく接しました。金は多く手に入りましたが、彼を愛し尊敬する人はほとんどいませんでした。五十才をすぎた時、極度のノイローゼとなり夜も眠ることができず苦しみました。この時彼は自分だけ、金だけの道が滅びの道であることに気づき神の前に自分のなしてきたことを悔い改めイエス・キリストを救い主として信じました。彼の心に喜びと生きがいが生じ、今まで与えられた富を神と人のために用いるようにしました。彼は「自分のため、金のため」の生き方をやめイエス・キリストを救い主として信じて歩んだ時「まことのいのち」を手に入れたのです。 







*******ことばの光******10月30日 

主イエス・キリスト全世界の人々の弟子化の命令とインマヌエルの約束 

 

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。 

 マタイの福音書 28:19,20 

 

復活したイエス・キリストは、十一人の弟子たちが今後何をするのかを明確に神の権威をもって命じられた。弟子たちが人々を待って福音を教えるのではなく、全世界へ出て行ってイエス・キリストの福音を伝えイエス・キリストを救い主と信じたものたちをイエス・キリストの弟子とせよとの命令であった。イエス・キリストの弟子とせよと強調したのはイエス・キリストを信じたことを満足している信仰者ではなく生涯イエス・キリストから学びどのような苦難、試練に会っても最後までイエス・キリストに従い続ける者が弟子であるからである。イエス・キリストは弟子たちにイエス・キリストを信じた者には父、子、聖霊の名によるバプテスマを授け、みことばを守っていくように教えるように具体的な指示もした。イエス・キリストは全世界の人々の弟子化を命じただけでなく、宣教、弟子化の働きをする弟子たちと世の終わりまでともにいて導いてくださるとのインマヌエルの約束までしてくださった。すべての教会の宣教目標は自国、自分の地域にとどまらず全世界であることを覚え、宣教、弟子化の働きを進めよう。 






*******ことばの光********10月23日

イエスの十字架を背負わされたシモン

 

彼らはイエス・キリストを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。

 ルカの福音書 23;26


クレネ人のシモンがエルサレムに出てきたのは過越の祭をエルサレム神殿で祝うためであったが神殿での過越の祭の儀式を終えて通りに出てくると、イエス・キリストに十字架を負わせてゴルゴダの丘に先導しているローマ兵たちはイエス・キリストがよろよろと倒れそうな様子で歩いている様子を見て、いきなりイエス・キリストが背負っていた十字架を取りあげてシモンにその十字架を背負わせて歩かせた。強圧的にそうさせたので抵抗する間もなかった。ゴルゴダの丘まで十字架を背負っていったがそこで十字架を取りあげられ、イエス・キリストが十字架の上にはりつけにされ十字架はイエス・キリストとともにゴルゴダの丘に立てあげられた。十字架が立てあげられてから六時間のローマ兵士とイエス・キリストとの会話、群衆たちのあざけりの声、死のまぎわに発したイエス・キリストのことば等をシモンはじっと見聞きしていた。

シモンは、この後キリスト者になったと言われている。ローマ教会の信者としてパウロがシモンの息子ルフォス、シモンの妻のことを言及している(ローマ16:13)のはシモンがキリスト者になった有力な証しである。




******ことばの光******** 10月16日

 

二人の生き方 

 

ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持ってみもとにやって来た。そして食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。 

 マタイの福音書 26;7 

 

ベタニヤのシモンの家にイエス・キリストがおられた時、ひとりの女が非常に高価な香油の入った壺を持ってイエス・キリストのおられるシモンの家に来て食卓に着いておられたイエス・キリストの頭に香油を注いだ。弟子たちはこの女の行為をよく思わずこの香油を売ったなら高く売れ貧しい人たちに施しができたのにと言った。イエス・キリストは十字架でのご自分の死を察知しておられたので、この女の行為をほめ、「この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。」と語られた。 

この出来事の後イスカリオテのユダは祭司長たちのところに行ってイエス・キリストをあなたがたに引き渡すなら、何をくれますかと尋ねた。彼らはイスカリオテのユダに銀貨三十枚を支払った。香油をイエスの頭に注いだ女はイエス・キリストから受けた愛に感謝して自らの持てる最高のものをイエスに与えた。イスカリオテのユダはイエス・キリストから受けた愛に感謝せず裏切り金貨三十枚を受け取った。まさに与える(give)人と受け取る(take)の生き方が示されている。 






 

********ことばの光*******10月9日

 

主より与えられたものを活用せよ 

 

五タラント預った者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。 マタイの福音書 25;16 

 

イエス・キリストはマタイの福音書25章で主人がしもべに財産を与えて旅に出、財産を預かったしもべたちが財産をどのように活用したかを旅から帰ってきてしもべたちから報告を受ける話を語られた。五タラント預かった者は五タラントを活用して五タラントもうけた。ニタラント預かった者は二タラントを活用して二タラントもうけた。ところが一タラント預かった者は活用して損したら主人に叱られると思って一タラントを地の中に隠しておいた。それぞれの報告を聞いた主人は与えられたものを活用してもうけた五タラント、ニタラント預かった二人の者をほめ、さらにたくさんの物を任せようと言った。ところが預かった一タラントを地に隠した者を叱りその一タラントを五タラント預かった者に与えなさいと語られた。 

私たちは主なる神より遣わされてそれぞれ異なった賜物、才能を与えられている。だから他の人に多く賜物が与えられているからといってうらやむことなく自分に与えられた賜物を神の栄光と人の益のために十分に活用することに努めようではないか。ちなみに英語のtalent(才能、才能のある人の意味)はイエス・キリストがマタイ25章で語った話から由来している。 




 
*******ことばの光*******10月 2日

罪の解決の道 

 

内側から、すなわち人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。 

マルコの福音書 7;21~23 

 

神より遣わされて人の救い主としてこの世に来たイエス・キリストは、世のどの思想家にまさってするどく人の心の内にある悪しき思いすなわち聖書が示す罪を指摘した。(マルコの福音書 7;21~23)イエス・キリストが指摘した罪の実体について自分にはそのような悪しき思いはないと断言できる人は誰もいない。神が造られた最初の人アダムが神に背いたので、子孫である私たち人間は生まれた時より罪をもって歩んできたのである。聖書は罪をもったままなら神のさばきを受けなければならないと語る。 

罪ある人間が神のさばきを受けない道はあるのだろうか。罪をもつ人間の行末をあわれんだ神は罪の解決の道として御自分のひとり子イエス・キリストを人間の罪の身代わりとして十字架につけた。罪のないイエス・キリストの身代わりの死により自らの罪を認め悔い改めイエス・キリストを罪よりの救い主として信じる者に罪のゆるしを与え神のさばきを免れる道を与えた。人間では考えられない神の知恵、奇蹟である。 






*******ことばの光*******9月 25日

神の前に自らを整えたヨタム王 

 

ヨタムは勢力を増し加えた、彼が、自分の神の前に、自分の道を確かなものとしたからである。 歴代誌第二 27:6 

 

ユダの王ヨタムは父ウジヤ王の死後ユダの王となり十六年間ユダを治めた。幼少から父の背中を見ていたヨナムは父の良きわざは継承してさらに発展させた。ヨタムは父のなした農業と防衛の強化を継承しただけでなくユダの山地を開拓してそこに町々を建てた。 

ヨタムが父ウジヤにならわなかったのは、神によりユダが繫栄した後の生き方であった。父ウジヤは神が繁栄させてくれたことを忘れ高慢になり神の律法に従わなかった。父の失敗を目のあたりにしたヨタムはユダの国の繁栄後、神の前に静まり自らを点検し神の前に自らを整えることをした。新改訳聖書では、「彼が、自分の神、主の前に自分の道を確かなものとしたからである。」(歴代誌第二26:6)と訳しているが「確かなものとした」と訳したヘブル語は「用意した」とか「整えた」という意味もある。文脈から考えると旧約聖書翻訳委員訳「彼は彼の神ヤーウェの前で自分の道を整えながら生きたからである。」がふさわしいと思われる。ヨタムの信仰生活は完全無欠ではなく罪が示されると悔い改め神のみこころの道に自分を修正(整える)歩みであった。 






 

******ことばの光********9月18日 

 

目を上げよ。主に向かって 

 

私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれんでくださるまで。
 詩篇 123篇2節
 

 

エルサレム神殿の重要な祭に参加するために家を出た巡礼者の旅は困難が伴いました。強盗におそわれたり、エルサレム神殿の重要な祭に価値をおかない者たちから時と金と労力を貴して神殿の祭に参加したら何が得られるのか。祭に参加しなくても神に祈ったら相当なものが得られるのではないかと嘲りのことばをかけられ気がめいったのでしたが、巡礼者たちは旅は止めることなく天の御座に着いておられる主に目を上げるのでした。 

主に目を上げ主に向かって祈り続けました。主が巡礼者をあわれんでくださるまで祈り続けた時、天よりのあわれみが主によって注がれ巡礼者たちは主よりの恵みと力をいただき、力強くエルサレムに向かって歩きだし、ついにエルサレムに到着し神殿での重要な祭に参加できました。各地から集ってきた巡礼者たちと主にあって一つとなり高らかに主に感謝の讃美と祈りをささげることができました。困難の旅を経て主にあって一つとなってささげた祭での礼拝は何ものにも代えがたい貴重な経験でした。主は困難な状況にあっても主に目を上げ主に向かって祈り求めるものに豊かな祝福を注いでくださるのです。 






*******ことばの光*******9月11日

 

人生の転換点

 

しかし、彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身を滅びに招いた。彼は自分の神、主の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして神殿に入った。

歴代誌 第二 26:16

ユダの王ウジヤは父アマツヤの死後16才で王となった。彼は神を恐れ神に忠実に歩む良き指導者ゼカリヤに導かれて神を求め神の道を歩んだ。神は神を恐れ神を神を求めるウジヤを祝福したので彼が王位についてから他国との戦いにおいても勝利し、また民の命の糧を生産する農業にも力を注いだのでユダの民は飢えることなく豊かな生活をすることができた。神を恐れ神を求めて歩むウジヤ王の名声は遠方の国々にまで広まった。

歴代誌の作者は彼の名声が遠方の国々にまで広がった原因についてこう記した。「彼が驚くべき助けを得て、強くなったからである。」(歴代誌 第二 26:15)

驚くべき助けとは神の助けである。ところが彼の名声が遠方の国々にまで広がった後、彼の心は高ぶり神を恐れず神を求めず自らの力を過信して行動するようになり祭司以外入ってはいけない神殿に入り、祭司以外許されない香をたこうとした。祭司に止められると激しく怒りなおも香をたこうとした。ウジヤは主に打たれて重い皮膚病となり死に至るまで隔離されて過ごし、死後も王の墓には葬られなかった。彼の生涯は信仰者に対する警告として示されている。





********ことばの光******9月4日

父の愛と放蕩息子の帰還 

こうして彼は立ち上って、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き口づけした。
 ルカの福音書 15:20
 

 

息子が父の家を出て行ったのは、今まで経験したことのない未知の地での冒険と自由を求めたからであった。その為に父の死後にもらうはずの財産を要求して手に入れ再び家に帰るつもりはない覚悟で家を出て遠い国へ旅立った。遠い国の都会で金を使って手に入れたものは快楽の充足だけだった。息子は快楽の充足を手に入れた代わりに財産のすべてを失い、食べるものがない中で豚飼いとところで豚の世話をすることになったが豚飼いは豚に食べさせるいなご豆さえも彼に与えなかった。この時彼は父の家を思い起こし父の家に帰る決心をした。自らの思いをとげる為に父に対してなした罪をわびて。父は息子が家を出て行ってから一日たりとも息子のことを思わぬ日はなく息子が帰る日を待ちわびていた。父が家の外に出て遠くを見た時息子がもどってくるのではないか。父は駆け寄って彼の首を抱き息子に口づけして彼を迎え入れた。 

これはイエス・キリストが語った父の家を出て行った息子の話だが、神から離れ反逆して歩む罪人なる我々人間が神の愛にきずいて罪を悔い改めて神に立ち返るならば神は豊かなゆるしをもって私たちを迎え入れ新しい人生に導いてくださることを示している。 





********ことばの光*****8月28日

私のなす行為は神の栄光を現わすことになるか。

イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』
とも書いてある。」 マタイ4:7

サタンの誘惑の第二でサタンはイエスを都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。」と言った。しかし詩篇91篇11~12節のみことば『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』とも書いてある。」を引用して神殿の上より身を投げても神が守ってくださるからとしてイエスに身を投げるように求めた。
このサタンの挑戦にイエスは応じなかった。イエスにとってあらゆる行為をなす前に常に考えるべきことは自らがなす行為によってそのことが神の栄光をあらわすことになるかということであった。神殿から身を投げて奇跡的に助かったとしても神の栄光が現われたり、何か人の助けとなるようなことはないのである。それ故サタンの求めに応じるのは申命記6章16節「あなたの神である主を試みてはならない。」のみことばに反することときっぱりとサタンの求めを退けたのである。
私たちの信仰者も小さいことであれ大きいことであれ行為をなす前にこれをすることは神の栄光を現わすことになることだろうかとまず考えよう。






********ことばの光******8月21日

背信の子らよ。帰れ。

背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。

       エレミヤ書 3:22

 

預言者エレミヤは神に捕らわれた預言者でありました。預言者として神のことばを語る中でそのことばが自分たちにとって都合が悪い王、ユダ、イスラエルの民から迫害され苦難の道を歩くこともありましたが預言者として生き預言者の使命を全うしました。エレミヤが生涯を貫いて語ったメッセージは「神に帰れ。」でした。エレミヤが神のことばを語った時、ユダ、イスラエルの民はまことの神ヤーウェを捨て異国の神バアル、アシュラの神を拝んでいました。エレミヤにとって生命の源なる神ヤーウェを捨て異国の神バアル・アシュラの神を拝むことは神の民ユダ、イスラエルにとって神が最も嫌う背信の行為でした。エレミヤは人々の顔を恐れず神がエレミヤに示した「神に帰れ。」のメッセージを語り続けたのです。神に帰るとは、偶像の神を拝む罪を認め、おわびし、心をまことの神ヤーウェに向けて歩むことです。心より神に帰る者に対して神は背信をいやしてくださると約束し実際に背信の罪をゆるし神よりの平安、祝福をもって導いてくださるのです。イエス・キリストは「放とう息子」のたとえの中で放とう息子が罪を悔い改めて父(神)のもとに帰った時、父(神)は放とう息子をゆるし豊かな祝福をもって迎えてくれたことを語られました。 


 


*********ことばの光******8月14日 

黙って神を待ち望め 

 

私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。         詩篇62:1 

 

誰の人生にも自らの力また人間の知恵、力では解決できないような問題、試練がおそいかかってくる。そんな時どうしたらよいのだろうか。詩篇62篇の作者ダビデの人生において息子アブシャロムによって王宮を追われ少数のつき人たちと逃げた時は万事休すと思ったにちがいない。しかし人の力が尽きたと思える時こそ神が働いてくださる。ダビデはひとり神の前に出て神に置かれている状況を打ち明け人知を越えた神に祈りこれからの人生をゆだねた。この神との対話、祈り、待ち望みの後アブシャロムは失脚し神により再びダビデは王座に返り咲いた。 

詩篇62篇はダビデが人に相談せず、ただ神を待ち望んだ後、神が危機的状況にあったダビデを引き上げ救い出してくれた経験を基にして作られたものと思われる。1節の黙って神を待ち望むとは、声を出さずに神を待ち望むことだけでなく、人間に相談せず最も頼りがいのある全能者により頼んで神を待ち望むことである。神に信頼して祈り待ち望んで、救いを体験したダビデは、「私の救いは神から来る。」と断言した。神に信頼して待ち望み祈る者には救いと勝利と祝福が伴ってくるのである。 




******ことばの光********8月7日

使命ある人生への招き

 

イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」         マタイの福音書4章19節

 

ナザレの家でヨセフ・マリヤによって育てられ成人してから大工の仕事をして家を支えていたイエス・キリストは30才の時、父なる神によってナザレの家を出て世の人々のために神よりの福音を伝えるように示されると即座に父なる神に従ってナザレの家を出て悪魔の誘惑に勝利した後、イスラエルの民に対して神の福音を宣べ伝える宣教の業を開始した。

イエス・キリストがまず宣教の業を始めた地はガリラヤであった。ガリラヤ湖のほとりでペテロとアンデレが湖で網を打っているのをご覧になったイエス・キリストは彼らに声をかけられた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 イエスの声は天来の声であったが力強く神よりの権威があった。神が呼び、今従事している漁師の業ではなく人間を救い出す漁師という新しい使命への招きであった。人間の打算ではなく神に導かれて二人は自分達を召して下さった神であるイエス・キリストに使っていた網を捨てイエスの招きの声に従った。神であり救い主イエス・キリストに従う人生こそ最も幸いな人生である。 






******ことばの光******7月31日

得意の時こそ心せ

アマツヤがエドム人を討って帰って来た後のこと、彼はセイル人の神々を持って来て、それらを自分の神々として立てた。彼はその前で伏し拝み、犠牲を供えていた。
歴代誌第二 25:14

つユダの王アマツヤはユダをおびやかす強敵エドムと戦って勝利する為イスラエルに呼びかけ銀百タラントを払って十万の兵士を集めてユダとイスラエル合同軍によってエドムを打ち負かそうとした。神は預言者をアマツヤのもとに遣わして「偶像を拝むイスラエル兵とは神はともにおられないからイスラエル兵を除きなさい。ユダだけで戦うなら神はともにいて助ける。」と語られた。アマツヤは預言者のことばを信じてすでに金を払ったイスラエル兵を除いてエドムとの戦いにおもむき戦いに勝利した。神に栄光を帰して神をほめたたえるべきだったのにアマツヤは何を勘違いしたのか自らの力の故に勝利したと高慢になったばかりかエドム人が拝んでいた偶像の神を礼拝するようになり生涯の終わりも部下に殺害され悲劇の終止符を打った。あつあつ信仰者は目に見えるかたちでの成功にとらわれずたえず主なる神に対して二心ではなく心からの真実をもって仕えなければならない。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ




 

******ことばの光******7月24日


満ち満ちた豊かな方より受ける恵み 

 

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
ヨハネ 1:16
 

 

ヨハネの福音書を記した弟子のヨハネはイエス・キリストに召されて十二弟子の一人となり身近にイエス・キリストと過ごす中でイエス・キリストから受けた恵みが時にかなって必要に応じて数えきれないほどであったことを思い起こして感動をもってこう証言した。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から恵みの上にさらに恵みを受けた。」(ヨハネ1:16) 

強いときには強いときの恵みを、弱いときには弱いときの恵みを、病める時には病める時の恵みを、悩める時には悩める魂に力を与え励ます恵みが与えられた。満ち満ちて豊かな方から恵みをとぎれることなく受けるにはどうしたらよいのだろうか。まずイエス・キリストに信仰によってしっかりつながり続けること。次に必要がおこるごとにイエス・キリストに祈り求めること。そうするならばヨハネが経験したようなイエス・キリストが与えて下さる恵みが私たちの上にも次から次へとぎれることなく与えられます。「あなたは地を訪れ、水を注ぎこれを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。(詩篇65:9) 





******ことばの光*******7月17日

苦しみを通して与えられる恵み

 

苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。詩篇 119:71

 

詩篇119篇の作者は神のみことばを愛する人でした。彼が神のみことばをよりいっそう愛するようになったのには彼が苦しみ(苦難)に直面したからでした。「苦しみにあう前には、私は迷い出ていました。しかし今はあなたのみことばを守ります。」(詩篇119:67)

神を信じる者でしたが、みことばには信仰生活において重要な役割があることを深く認識していませんでした。みことばを真剣に求め心に留めることをしませんでした。その中で神を信じていながら自分の歩むべき道がわからず迷い出てしまったのです。そんな時、彼に苦しみがおそいかかりました。彼が真剣に神に祈り求めた時、神のみことばが光となって彼の行くべき道を示してくれました。彼は苦しみに打ち負けず立ち上がることができたのです。この経験を通して彼は力強く告白することができました。

「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)

世々の聖徒も苦難を通して神の恵みと神のみことばのすばらしさを知ったのです。






*******ことばの光*******7月10日
 
将来を主にゆだねよ
あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主がなしとげてくださる。
詩篇 37:5

詩篇 37 篇の作者ダビデは主によって導かれ、主のみこころのうちを歩みました。預 言者サムエルによって主がダビデをサウルの次にイスラエルの王に召していることを示 されて油を注がれた後、イスラエルの王となってから王の仕事は自分の力では全うでき ないことを認識していました。王としていかにすべきかと悩むとき主に祈り求めました。主が王のなすべきことを示され、示されたことを行ないました。周辺に外敵が多い為 イスラエルの将来に不安が生じました。不安の中で主に祈り求めた時、主がダビデに示 されたのは、将来は主の御手の中にあるので将来も主に全くゆだねよということでした。ダビデは自分の将来もイスラエルの将来もいっさい主にゆだねました。ダビデの不安、恐れは去り、主にある平安がダビデの心を満たしたのです。ダビデは 自らの経験を他の信仰者にも分かちたくて詩篇 37 篇を書き記したのです。私(三井)が伝道者の道を歩むよう主に示された時、どのように進んで行くべきか主 に祈り求めた時、詩篇 37 篇 5 節のみことばが与えられました。その後シンガポールの 神学校に行く道が開かれて進学、卒業でき今日牧師の道を歩ませていただいています。




 

********ことばの光*******7月3日



イエスに信仰の手を伸ばし女

彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。マルコ 5:27

 

女性特有の長血で12年間苦しんでいた女がいた。多くの医者にかかったが財産をつぎこんだのにもかかわらず、いっこうによくならなかった。生きる希望もないほどに落ちこんでいたが、そんな時イエスのことを聞いた。イエスは病める人をいやし、その語る神のことばは人に希望と生きる力を与えるということだった。そのことを聞いた彼女は今まで失うものが大きかっただけにイエスという方に自分の人生を信頼しまかせてみようという気になった。イエスに出会う時が近づいた。自分の住む町にイエスが来たという知らせを聞いた彼女は人々と共にイエスがおられる所に急いだ。人々があの方がイエスだと語った時には彼女はイエスの背後にいた。病める人をいやすことのできるイエスに信頼と期待をもって触れることができるならイエスは必ずいやしてくださると信じて彼女はその手を伸ばしてイエスの衣に触れた。

すると見よ。イエスから力が出て彼女はいやされた。12年の苦しみは消え、彼女は喜びイエスに自分の身におこったことを話した。イエスも喜び、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」と彼女に声をかけられた。 


 



 

**********ことばの光********6月26日

 

最大の幸い 

 

しかし私にとって神のみそばにいることが幸せです。私は神である主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げます。 

詩篇 73:28 

 

詩篇73篇の作者アサフは神殿礼拝において主を讃美する歌い手として奉仕していた。彼は信仰者として充実した日々を送っていた。ところがある時、主を信じず主に従わない悪人たちが主にさばかれることなく経済的に富み、主を信じる信仰者以上に人がうらやむほどの生活をしているのを見た時から彼の心は変わってしまった。彼らはなぜ主を信ぜず主に従わないのに栄ある生活をしているのだろうかという疑いにとりつかれ、彼らの生活と自分の生活を比べて自らがみじめに思えてきてしまった。そのような心で主を讃美する奉仕をしてもむなしさを覚えた。こんな心で聖なる奉仕を続けてはいけないとの思いから信仰の道から離れようとした。この時アサフは主にどうすべきか求めようとして誰もいない神殿に行き主のみこころを求めて祈った。アサフの祈りに対して主は彼ら(悪人)の最後を示された。彼らの最後を知った時、信仰者の幸いとは何であるかを知ることができた。天地万物の根源である主が信仰者と共にいて下さること(主の臨在)こそ信仰者にとって最大の幸いであることがわかってアサフは心から主を讃美することができた。 





 *********ことばの光*********6月19日

 罪の誘惑に打ち勝つ道

私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。
 詩篇 119:11
 
詩篇 119 篇の作者は心より主のみことばを愛し、みことばに従って生きた人でした。しかし、何の誘惑も困難もない歩みではなかったのです。若き時代性的な誘惑にも直 面しましたが誘惑に打ち勝つことができました。その経験を証ししました。「どのようにし て若い人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道 を守ることです。」(詩篇 119:9) 作者は誘惑に直面した時神のことばに示されて誘惑をしりぞけ罪を犯すことをしませ んでした。みことばに示されて誘惑をしりぞけたのですが、日々そのためになしていたこ とがありました。それは、日々みことばを読み聞き黙想して心に留め心に蓄えていたの です。みことばを心に蓄えているとは何度もみことばを思い口づさむうちに、しっかりと みことばを暗唱できるほどになったのです。このようなみことばが心に蓄えられていると、 困難や誘惑に直面した時、ふさわしいみことばが示され、光となって困難、誘惑に打ち 勝つことができるのです。主イエス・キリストはサタンの三度の誘惑に対していずれもみ ことばをサタンに示して勝利されました。

 




***********ことばの光**********6月12日

 

全能者の御手に守られたヨアシュ

 

王の娘エホシェバは、殺される王の子たちの中からアハズヤの子ヨアシュをこっそり連れ出し寝具をしまう小部屋にその子とその乳母を入れた。祭司エホヤダの妻でアハズヤの妹である。

歴代誌 II 22:11 .

 

偶像礼拝を民にも求め神の喜ばない道を歩んだユダの王ヨラムが死んだ後、ヨラムの子アハズヤがユダの王となった。アハズヤ王の後見役となったのは彼の母アタルヤでイスラエルの王アハブの娘で死んだヨラムの妻であった。アハズヤ王の後見役となったアタルヤは主の喜ぶ道ではなく、夫であるヨラムと同様偶像礼拝を推奨したのでアハズヤ王もまことの神を礼拝せず偶像礼拝の道を進んだ。悪しき助言者はわざわいである。

神はアハブの家とアハブの家に関係する者たちの偶像礼拝の罪をさばくためにイスラエルにエフーを王として立てイスラエルの王ヨラムとユダの王アハジヤをさばいたのでイスラエルの王ヨラムとユダの王アハジヤは死に至った。ユダの王アハジヤが死んだ後後見役であったアタルヤが王となったがユダの家に属する王の一族全員を滅ぼそうとした。しかし神はユダのアハジヤの妹であるエホシェバの手を用いてアハズヤの子ヨアシュを神殿の寝具をしまう小部屋に6年間隠した。

ダビデと神との契約の故にダビデの子孫を滅ぼさなかった・神が全能者の御手をもってヨアシュを守ったのであった。 

 



  

*************ことばの光*********6月5日

 

弟子たちを嵐から救ったイエス・キリスト 

 

イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」 

  ヨハネ 6:20 

 

イエス・キリストは五千人にパンを与えたみわざをなさった。人々がイエス・キリストを王にしようとした後、イエス・キリストは弟子たちや人々から離れてただ一人山に登り祈りをされた。山で祈っているイエス・キリストを持つべきだったのに弟子たちは伝道の根拠地のカペナウムめざしてガリラヤ湖畔で舟を出した。4,5キロ進んだところで突然嵐が出現した。夕方出発したこともあり暗闇の中で死の恐怖を覚えてうろたえていました。そんな折、暗闇の中でガリラヤ湖の周辺を歩いて弟子たちの側にくる人影がありました。イエス・キリストかなと覚えつつも幽霊かなとも思い恐怖がつのりました。人影は弟子たちに近づくと「わたしだ。恐れることはない。」と弟子たちに語りかけました。主イエス・キリストでした。弟子たちの恐怖は消え、喜びと平安が弟子たちを満たし弟子たちはイエス・キリストを舟に迎え入れました。荒れ狂っていた嵐は程無くなぎて舟は目的地のカペナウムの湖畔にたどりつきました。 

私たちの人生の嵐においてもイエス・キリストが共にいてくださるなら、嵐から救い出され目的地に到着できるのである。 





  

**************ことばの光********5月29日

 

民を主に立ち返らせたヨシャファテ王 

 

ヨシャファテはエルサレムに住んでいたが、彼はもう一度ベエル・シェバからエフライムの山地に至る民の中に出て行き、彼らを父祖の神、主に立ち返らせた。 

  歴代誌 Ⅱ 19:4 

 

ユダの王となったヨシャファテは、王としての模範をダビデとして偶像の神々に求めず主を求めた。そして王宮にとどまって人々に命令を下しただけでなく自らがベエル・シェバからエフライムの山地にいたるまで民の中に出て行って主の道を説き、ユダの民を主に立ち返らせた。リーダーたる王自らが直接語る時、民も王のことばを真剣に受けとめ、罪を悔い改めて主に立ち返ったのであった。主イエス・キリストは復活後弟子たちにこう語られた。「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:18~20) 

ヨシャファテは、主を恐れ真実と全き心を持つ裁判官を任命して裁判においても主の善とあわれみが示されることを求めたのでユダの国には主の祝福と平和が存続した。 







**************ことばの光*********5月22日 

 

大軍に立ち向かったヨシャパテ王とユダの民 

 

主はあなたがたにこう言われます。「この大軍のゆえに恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。」 

  歴代誌 Ⅱ 20:15 

 

ユダの王ヨシャパの時代に、モアブ人、アンモン人、エドム人が連合した大軍がユダに攻めてきた。この時ヨシャパテ王は主を求めユダ全土に断食して祈るように呼びかけた。 

ユダの民はエルサレムに集って断食して祈り、主の助けを求めた。ヨシャパテ王もユダの民も祈る中で主の霊がレビ人ヤハジエルに臨み、大軍のゆえに恐れず神が戦ってくださるから明日出陣せよとの神のことばを語った。神のことばを信じたヨシャパテ王は出陣の時、主を讃美する者たちを任命して兵士たちの前に位置させ「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」との讃美をさせ兵士たちは聖歌隊の後から進んで行った。聖歌隊が讃美して進んで行くと、神が見えざる御手をもって働かれた。主が設けられた伏兵が大軍の連合軍に奇襲をしかけたので大軍の連合軍はあわてふためき連合軍は打ち負かされた。主の働きによりユダの国は滅亡の危機から救い出された。 

私たち信仰者には私たちの前に立ちはだかる大軍(困難、試練)に立ち向かい打ち勝つ力はないが、主により頼み、祈りと信仰と主への讃美によって進むならば主が打ち勝たせてくださる。 

 

 



**************ことばの光*******5月15日

 

主への信仰の道を選択したルツ 

 

お母様を捨て、別れて帰るように仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。   ルツ記1:16 

 

イスラエルのベツレヘムからモアブの地に二人の息子と共に移住したナオミと夫エリメレクはモアブの地で苦難を経験した。ナオミは夫に先立たれた。深い悲しみの中でのなぐさめは二人の息子の成長であった。二人の息子はそれぞれモアブ人の嫁を迎えて結婚した。ナオミは主にあって喜び二人の息子の結婚を祝福した。しかし二人の息子にも先立たれてしまった。夫の死に続いての二人の息子の死はナオミに立ち上がることもできないほどの悲しみと苦痛をもたらした。夫と息子に先立たれたモアブの地を離れて故郷イスラエルのベツレヘムに帰る決心をしたナオミにすがりつきナオミと共にベツレヘムに行く堅い決意を示したのは二人の息子のうちのキルヨンの嫁のルツであった。ルツはナオミと共に暮らす中でナオミの信仰する神の恵みと力を知りモアブの偶像の神ではなくナオミの信じる神の信仰者となったのであった。 

ナオミはルツに対してまことの神の証人となったのである。ベツレヘムに移り住んだナオミとルツはその地でボアブに出会いルツはボアズと結婚した。ルツとボアズの子オベデはダビデの祖父で主のくすしい摂理によりルツは救い主イエス・キリストへと続くダビデの家系に連なる者となった。 





 

*************ことばの光********5月8日

 

イスラエル(神と戦う者) 

 

ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。 

  創世記32:24 

 

兄エサウをだまして長男に与えられる祝福を奪ったヤコブは、エサウの怒りをまぬがれる為にパタン・アラムの親族のもとに行って住み、その地で結婚して財産を築き父イサクのもとに帰ろうとした。しかし父イサクの地に至るには兄エサウの所有している地を通らなければならなかった。エサウがいまだに怒っているなら仕返しをされるのではないかと恐れた。エサウに会う前にひとり祈りながら神と向き合う時をもった。この時の様を聖書は神と格闘したと記している。神を求め神の祝福、恐れの心ではなく神より与えられる平安を求めたヤコブは神によって神との格闘の代償として腰の筋に負傷を負った。 

神は神を求めたヤコブがその結果、神により新しい存在となったとしてヤコブの名を「イスラエル」とするように命じた。 

イスラエルとは「神と戦う者」という意味だが、神を求める者ともいえる。聖書において真剣に神を求める者に対して神は豊かな祝福を与える方であることがアブラハム、モーセ、エレミヤ、パウロなどの信仰者の例で示されている。神を求めたヤコブが腰の筋を負傷したが、神を求める者は、たとえ求める過程で犠牲を払い、苦難を受けてもそれらを甘受しなければならない。 







**************ことばの光********5月1日

 

重荷を負ふ者、われに来れ 

 

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 マタイ11:28 

 

この世に生まれ出てきて生きる者は、誰でも重荷を負って生きています。その重荷は人間関係の重荷です。家庭で学校、職場で人間関係に悩まなかった人は誰ひとりとしていないほどです。また人は自分の人生の歩みの中でどの方向、どの道に向かって歩んでゆくべきかという重荷があります。歩むべき道を決める前に恐ろしい悪の道に誘われてその道に進み後悔の涙を流した人が多くいます。 

さらに聖書が示す罪の重荷があります。最初に罪を犯したアダムの子孫として生まれた私たち人間は生まれた時より罪があり罪の悔い改めなく生きるならば罪を重ね最終的に罪のさばきを神より受けなければなりません。このような様々な人間の重荷を解き放ち、人が神のみこころの善の道に歩むためにこの世に来て下さった方がイエス・キリストなのです。 

誰でも重荷を持つ者は他の誰ではなく、イエス・キリストのもとに行けば、重荷から解き放たれて新しい善の道を歩むことができるのです。あなたが聖書のことばが真実であるか、自分の身をもって実験してみてはどうでしょうか。イエス・キリストはあなたを重荷から解き放ち安息を与えてくださいます。 







**************ことばの光**********4月24日 

 

イエス・キリストの証人に任命されたパウロ 

 

わたしがあなたに現われたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなた 

示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
                                 使徒の働き 26:16
 

 

  キリスト者をダマスコに行って捕え迫害しようとしていたパウロに復活されたイエス・キリストが現われ、パウロのこれからのなすべきこととしてイエス・キリストの証人に任命しました。復活したイエス・キリストのことばを真剣に受け入れたパウロは、今までの罪を悔い改め、イエス・キリストを主、救い主と信じてから地上の生涯が終わるまでイエス・キリストの証人として生きました。 

  パウロがイエス・キリストの証人としてなしたことは、イエス・キリストとの交わりを欠かさず、イエス・キリストの十字架と復活の福音をまだイエス・キリストを知らない人々に証しすることでした。そのことによってイエス・キリストの福音を聞いた人々は目が開かれ、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰り、イエス・キリストを救い主と信じる信仰により罪のゆるしを得、永遠の命など神が信じる者に与える祝福を受けることができたのです。イエス・キリストの証人として生きることは、すべてのキリスト者が、イエス・キリストから求められているのです。 

 





*************ことばの光********4月17日

 

自ら近づかれた復活の主 

 

話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。    ルカ 24:15 

 

主イエス・キリストが十字架にかけられた後、息をひきとられた後、アリマタヤのヨセフの願いが受け入れられ、主イエス・キリストはアリマタヤのヨセフが新たに造った墓に葬られた。この時点で弟子たちの誰ひとり主イエス・キリストが復活するなどと思っていなかった。弟子たちは主イエス・キリストに出会う前に従事していた職業をも打ち捨てて主イエス・キリストに自らの人生をゆだねてひたすら主イエス・キリストに仕えてきたのに主であり師である主イエス・キリストが死に葬られたが悲しみにくれていただけでなく生きる使命を失って前に進む力もなくうずくまっていた。弟子たちの二人の者は、失意の中で自らの故郷に帰って新しい道を探そうとしてエマオに向かっていた。その失意の二人に近づかれ話かけられたのは復活した主イエス・キリストだった。主イエス・キリストは二人に聖書を説き明かされた。二人は主イエスをエマオの家に招いて主イエス・キリストも家に入り、主イエス・キリストがパンを取り神をほめたたえて彼らにパンを裂き渡された。彼らの目が開かれ彼らは主イエス・キリストが復活したことがわかり急いでエルサレムに帰り復活した主イエス・キリストのことを他の弟子たちに報告した。悲しみと失意に沈んでいた弟子たちに喜びと希望が与えられ、復活した主イエス・キリストより示された新しいビジョンに向かって歩み始めた。 

  





*************ことばの光*******4月10日

苦難の祈り 

わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。 
 マタイ 26:39

 

十字架にかかる前イエス・キリストはゲッセマネの園に内弟子ペテロ、ヨハネ、ヤコブをつれて祈りに行った。三人の内弟子から離れたところで祈りだした。父なる神より示されて十字架にかかって人々のための身代わりの死をとげなければならないことはわかっていたが死をとげてしばらくの間神の臨在のない暗黒の場で過ごさなければならない苦しみを思うと切々と悲しみがこみあげてきた。その苦しみの中でとっさに出た祈りは、「わが父よ、できるなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。」という祈りだった。 

これまで一瞬たりとも父なる神との幸いな交わりを欠かしたことがなかったイエス・キリストは十字架の死後の父なる神との交わりのない暗黒のひとときは耐えられないものだと思われたので、できたら十字架にかかる道をはずしてくださいと願ったのだ。 

しかし、イエス・キリストの祈りは十字架身にかかる道をはずしてくださいで終わらず「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」の祈りが父なる神に対してささげられた。 

ルカの福音書によるとイエス・キリストが苦闘の祈りをしていると天よりの御使いが、イエス・キリストを力づけたと記しているがイエス・キリストも力をいただいて祈るうちに、父のみこころである十字架で身代わりの死をとげることが神のみこころであり、その道に従う確信を得て、祈りを終え十字架への道に進むために立ちあがった。 

十字架による救いはイエス・キリストのみこころに服従する祈りがあったからこそ与えられたものである。 


 

 

 



*************ことばの光********4月3日

目を覚まして待ち望め

ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。
マタイ 24:42

主イエス・キリストは弟子たちにご自身が終末の日、かつて地上においでになったように再びおいでになることを語られました。主イエス・キリストを待ち望む者はどのような姿勢で待ち望むべきでしょうか。
まず主イエス・キリストは必ず来られるという確信をもって待ち望むことが大切です。次に終末の日に主イエス・キリストが来られるからといって、現在従事している務めを放棄して待つということではなく、与えられている使命、仕事を忠実に行ないつつ主イエス・キリストを待ち望まねばなりません。
パウロはテサロニケの教会の中に終末の日が近いと考えて、仕事をやめた者たちがいたことを知り、日々の仕事を忠実にしながら主イエス・キリストを待ち望むように教えさとしました。
さらに終末の日に来られる主イエス・キリストを待ち望む者は、油断せず目を覚まして使命、任務に励まなければなりません。目を覚ましていない状態とは、どっぷりと世俗的関心事に心奪われてしまって神に心を向けることがおろそかになり悪魔の働きやすい状態になってしまい、ついには大切な信仰をも失ってしまうことになることもあるからです。そうならない為には信仰者の基本である神との交わり、祈り、神のことばである聖書を日々読み心に貯えること、教会の礼拝に出席し、キリスト者の交わりを深めることにつとめることです。
「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」 コロサイ 4:2


 



*************ことばの光******3月27日

 

聖書が示す神 

 

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。 

使徒の働き 17:24 

 

パウロがアテネに行った時、パウロが信じる神がどのような神なのかをアテネの市民に知ってもらうためにメッセージを語った。パウロが信じる神は天地万物を創造した創造者である。創世記に「はじめに神が天と地を創造された。」(創世記1:1)と記されてあるとおりである。神が創造主であるので人間も含めすべて造られたものは被造物であって被造物と創造者の間は越えがたい境界があり、ある宗教のように人間が死後神になることはない。 

パウロが信じる神は創造された天地と人間を支配し導く神である。すなわち歴史を導く神である。 

歴史を導く神は、御自身のひとり子、イエス・キリストを世界に遣わして、人の罪をゆるし神との交わりを持つようになるために、イエス・キリストを十字架につけて身代わりの死をとげさせたが三日目にイエス・キリストをよみがえらせ、イエス・キリストが人を罪から救う救い主であり神であることを立証した。パウロが信じる神は人を罪から救う救い主なる神である。 

パウロが信じる神は世界に終末の時が来ると、世界と人をさばくさばく神である。 

パウロが信じる神に対してさばきをまぬがれる道は、まず創造者であり歴史を導く神であり救い主なる神、終末のさばき主である神を知り、自らの罪を悔い改めて神が遣わしたイエス・キリストを救い主を信じることである。この道はすべての人に開かれている。 







*************ことばの光****** 3月20日

心を洗いきよめよ

 

目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。

マタイ 23:26

 

イエス・キリストがマタイの福音書24章の初めから終わりに至るまで、ことばを尽くして律法学者たち、パリサイ人たちにきびしく叱責、非難しているのは、彼らを倒すためではなく、イエス・キリストの警告のことばを聞いて、悔い改めてイエス・キリストを救い主を信じて従うものとなってほしいからであった。

律法学者、パリサイ人たちはイスラエルの民が神のことばに従わず偶像を拝んだことによりバビロン捕囚という苦難を受けた歴史から学んで、神のことばを一点一画に至るまで熱心に守ることこそ神の祝福を受ける道と心得て自らも熱心に神のことばを守ろうとしただけでなく、民にも守るように教えた人たちであった。彼らの志は良いものであったが、神のことばを完全に守ることのできない人間の罪深さ、弱さを理解せず、神のことばを守ることを自らにも民にも強要した。そのことにより彼らの信仰生活において、ともかく人の目に神のことばを守っているように見せることが重要なこととなり、目に見えない神を仰ぎ心の向きを神に注ぐ最も大切な信仰の在り方を見失うこととなっていた。

イエス・キリストはそのことを見抜いて、杯(心)の内側をきよめよ。そうすれば外側(目に見える人の行ない)もきよくなる(マタイ 23:26)と彼らに語られたのである。

律法学者、パリサイ人に語られたイエス・キリストのことばは、私たち信仰者に対して語られたことばとして読む時、私たちの信仰生活がイエス・キリストによって警告されていると受け取ることができ、悔い改めて心をきよめてイエスに従ってゆくものとなることが求められている。








 *************ことばの光****** 3月13日

油断せず心を見守れ 

 

そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手から逃れたのです。 

歴代誌 Ⅱ 16:7 

 

ユダの王アサは父アビヤの後継者としてユダを治めたが王に就任してから主の目にかなうことをなした。アサは父アビヤの時代にあった異教の偶像を取り除き民にもまことの神主を礼拝し主のみことばを守って生活するように勧めた。 

エジプト軍が大軍を率いて攻めてきた時、アサはエジプトの大軍に動揺せずまことの神、主に拠り頼み主の助けを求めた。主はアサの信仰と祈りに答えて下さって主の力をもってエジプト軍を退散させた。ユダの王に就任してから主に従い主の目にかなうことをなしてきたアサ王だったが死に至る五年前の時より彼の信仰はゆらぎだした。 

北イスラエルのバアシャ王が突如ユダの国に侵略しようとしてユダの国のラマの町を占領して防備を強固にした時、いつものアサ王なら主に拠り頼み主に祈るところだが、この時のアサ王はアラムの王に対して主の宮からとりだした多額の金と銀を渡すかわりに北イスラエルと戦うことを求めた。主に拠り頼まず、人の力と富に拠り頼んだ。アラムの王は多額の金銀を受け取って北イスラエルに戦いをいどみ、北イスラエルを打ち負かした。今までは主に拠り頼んでいた信仰者アサは何故主に拠り頼まなくなったのだろうか。おそらく今までの信仰の結果に満足してしまい、常に主を求め祈ることを止めてしまった心の油断が主に拠り頼まず人と富に拠り頼むようになった原因かもしれない。「何を見張るよりもあなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」(箴言 4:23) 







 

*************ことばの光****** 3月6日

 

何が一番重要な教えか 

 

先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。イエスは彼に言われた。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」 

マタイ 22:36~37 

 

パリサイ派の律法学者がイエス・キリストのもとに来て、「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と尋ねた。その質問に対してイエス・キリストは申命記6章5節のことばを引用して、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と答えられた。さらにレビ記19章19節のことばを引用して「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」という二番目に重要な戒めにも言及し、二番目に重要な戒めは一番重要な教えと同じように重要であると語られた。神を全身全霊をもって愛することと隣人を自分自身のように愛することは密接に関わっていて切り離せない重要な戒めであることをイエス・キリストは教えられたのである。 

当時の律法学者たちは聖書の戒めを細部に至るまで厳格に守ることが神の祝福にあずかることだと考えていてイエス・キリストからもそのような答えを期待したうえで最も重要な戒めは何かと尋ねたのだが、イエス・キリストは聖書が示す神のみこころは神を愛し、隣人を愛することだとパリサイ派の律法学者に示したのであった。 

イエス・キリストが人にとって最も大切な戒めとして示したことは、人の生きる目的が何であるかを示している。ウエストミンスター小教理問答書において人の生きる目的は神の栄光を現わすことであると記しているが、神を愛し、隣人を自分自身のように愛するならば神の栄光を現わすことができる。 







 

*************ことばの光******2月27日

 

悔い改めて神の国に入れ 

 

ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、「きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。」と言った。兄は答えて「行きます。おとうさん。」と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て同じように言った。ところが、弟は答えて「行きたくありません。」と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。 

マタイ 21:28~30 

 

イエス・キリストが神殿で祭司長、民の長老らと論争した時、イエス・キリストはある家の兄と弟の行動についてのたとえ話をして祭司長、民の長老たちに彼らの考えを改めるようにさとされた。ある家の父が兄弟に対してぶどう園に行って働いてくれるように依頼した。兄は行きますと言ったのに実際は行かなかった。弟は行きたくありませんと言ったが、思い直して出かけて行った。父の願いを実践したのは弟でした。 

このたとえからイエス・キリストは、当時イスラエルの人々から嫌われ、神のことばも守っていなかった取税人、遊女たちはイエス・キリストのことばを聞き行ないを見て罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じたので神の国に入っているが、あなたがた祭司長、民の長老らはたとえ話の兄のように口先では神を信じ従っているようであるが、神が遣わした救い主のことばを信ぜず従わないので神の国に入ることができない。しかし取税人、遊女たちのように罪を悔い改めて救い主イエス・キリストを信じれば神の国に入ることができるから、救い主を拒否する考えを思い直し(悔い改め)て神の国に入れるよう求めよと祭司長、民の長老らに迫った。神の国(天国)に入るために遅すぎることはない。死の直前に罪を悔い改めたため神の国に入ることを保証されたイエス・キリストとともに十字架につけられた強盗のひとりの例のように。 





  

*************ことばの光*****2月20日

 

敵の前でも豊かにもてなして下さる神 

 

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。 

詩篇 23:5 

 

ダビデの生涯は敵との戦いの連続でした。少年時代は父エッサイの羊飼いの仕事を手伝う折、獅子、熊、狼が羊をおそおうとあうる時、むちを持ってそれらの動物を追い払いました。 

イスラエルの王サウルに召されて仕えるようになった時、戦いに出て行って驚くべき成果をあげました。人民たちのダビデの人気がサウル王にまさった時、サウル王はダビデに嫉妬し、やがてダビデの命をねらうようになりました。寸前のところで命をおとしそうになった時、神はダビデの親友ヨナタンによってダビデを救いサウル王がダビデが隠れていた洞窟に入って来た時も御翼による守りによってダビデは救い出されました。 

ダビデに嫉妬するサウル王の宴会においても、神はサウル王によって与えられる食事を制限されずダビデに対して豊かにあふれるばかり供給されました。神は敵の前においても神に信頼する者に対して豊かに供給してくださる方です。 

詩篇23篇が記された年代は定かではありませんがダビデの晩年近くに記されたと考えるとこの詩篇が語ろうとしていることと合致するように思えます。 

ダビデが自らの歩んできた信仰をふり返った時、神がさまざまな試練、敵との戦いの中で、死の陰の谷を歩む際にも、常にダビデと共にいてダビデを導き、敵の前でも豊かに必要なものを与え、敵に打ち勝たせてくださったことを思い起こし、神に感謝をささげてこの詩篇23篇を記したのではないでしょうか。神に信頼する者、神と共に歩む者に必要なものを豊かに供給してくださる神をほめたたえます