ことばの光
小平キリスト教会の週報に書かれている
ことばの光です。
****ことばの光**** 12月3日
人間には測り知れない神の恵み
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリストイエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
ローマ人への手紙 3:23,24
人間はどの人も皆罪人であり、どの人も罪を犯した故に神にさばかれる存在です。罪人のまま死んでいったなら希望はありません。そのような人間を神は放っておいたでしょうか。神は人間を放っておかず、あわれみを持って人間を罪から救い出す為に御自分のひとり子イエス・キリストを世に派遣しました。処女マリヤより生まれたイエス・キリストは、30才の時から人々に神のことばを伝え、生涯の最後に将来に希望のない人間を救う為に十字架で死なれました。そして三日目によみがえりました。十字架で死なれたのは御自分は罪がないのに人間の罪の身代わりになって死なれました。これを「贖い」と言います。イエス・キリストの十字架の死を見つめて、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる時に罪ゆるされ、罪なき者とされるのです。このことは人間が善行しなければ義とされないのではなく神のあわれみの故に義を受けるのにふさわしくない者にイエス・キリストに向けられた信仰を見て義と認めてくださるのです。パウロはこの人間では考えもつかない神のわざを神の恵みによるのだと言いました。
****ことばの光******11月26日
地が揺れ動いても
静まって、わたしこそ神であることを知れ。(口語訳)
詩篇 46:10
詩篇46篇の作者はユラの子であるが彼は天変地異がふりかかっても恐れないと確信をもって告白した。それは彼が信じる神は、彼の避け所、また力。苦しむとき、そこにある助けであるからである。そこにある強き助けとは苦しみの時その場で主に助けを求めれば主が助けてくれるという関係の中で与えられる助けである。
コラの子は信仰を持ってすぐに主とそのような関係になったのだろうか。すぐにではなく日々主との交わりの中で主に求めていく中で築かれていったと考えられる。
彼の日々の神との交わりは、神の前に手のわざを止めて口をとじて静まり神に思いを向け神の語りかけを待つことから始まる。神の語りかけを受けて神への応答の祈りがなされる。そんな彼の日々の神との交わりが彼に天変地異の中でも「恐れない。神がともにいてくれるから」と言わしめたのである。
彼は自らの経験を人々と共有する為に彼が神より受けたことば「静まって、わたしこそ神であることを知れ」{詩篇46:10}を人々にも語ったのである。新改訳2017では詩篇46:10が「やめよ。知れ。わたしこそ神。」と訳しているが、人の手のわざをやめて主を仰いで主を知りなさいという意味である。
*****ことばの光**** 11月19日
神のための大工事
私は大工事をしているから、下って行けない。私が工事をそのままにして、あなたがたのところへ下って行ったために、工事が止まるようなことがあってよいものだろうか。
ネヘミヤ記 6:3
ペルシャ王アルタクセルクセス王に仕えていたネヘミヤはエルサレムの惨状(特に都を守る城壁がくずれているという情報)を聞いて悲しみ王に願って許しを得、財政的援助も受けてエルサレムにたどり着き民の協力を得て城壁再建工事を始めた。ところがユダに隣接するサマリヤなどを治める者たちが工事を妨害しようとしてきた。ネヘミヤはその妨害に屈せず工事をする者に一方の手には工事用具もう一方の手には槍を持たせて敵の妨害を防いだ。工事がまもなく完成に近づいてきた時、サムバラテたちは工事を中止させようとしてエルサレムより遠方のオノの地へネヘミヤを呼び出してそこで会見をしようと言ってきた。ネヘミヤはその会見をきっぱりと断わりこう言った。「私は大工事をしているから下って行けない。」ネヘミヤにとって神の民の都であり神を礼拝する神殿があるエルサレムの城壁は神の民を守るしるしであるので、城壁を再建する工事は神の事業であるから大工事と言ったのである。
神の事業に心を注いで従事する者は妨害しようとする者の策略を見抜き横道にそれないで、ますます従事しなければならない。
*****ことばの光***** 11月12日
みことばから離れなかった信仰者
みことばの戸が開くと光が差し、浅はかな者に悟りを与えます。 詩篇 119:130
イスラエルの民が神の民として歩みだしたのは出エジプト後荒野においてモーセが神から神のことばである律法を受け、その律法をイスラエルの民の歩むべき基準としてからでした。神のみことばこそ神の民、信仰者の歩むべき道の光であり基準であります。
詩篇119篇の作者は不詳ですが神のみことばを歩むべき道の光、生活の基準として愛しみことばに従い、みことばに生かされた人でした。彼は苦しい状況においてもみことばから離れずみことばに目を向けて歩んだのでみことばによって生かされ慰められました。
「これこそ悩みのときの私の慰め、まことにあなたのみことばは私を生かします。」(詩篇119:50) また行くべき道について悩んだ時、みことばによって行くべき道を示されました。
「みことばの戸が開くと光が差し、浅はかな者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)
彼はみことばは人生の歩みおいて光を与えてくださることを経験していましたが日々みことばを心に蓄えるみことばを暗唱する努力は怠りませんでした。
「私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。」(詩篇119:11) 罪の深みにおちいり悩み苦しんでいたアウグスチヌスは通りで遊ぶ子どもたちの歌声の中の「取りて読め」の声を聞いた時、すぐに聖書を開きローマ人への手紙13:12~14のみことばに捕らえられ罪を悔い改め主イエス・キリストを信じる者となりました。
***ことばの光*****11月5日
罪を悔い改めて父(神)のもとに帰った放蕩息子
それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して財産を湯水のように使ってしまった。
ルカ 15:13
父のもとで兄と共に父を助けながら働いていた次男はある日この田舎で生涯が終わってしまうなら人生悔いを残すだろうと考え、父のもとを出て遠い国で自分の人生を思うように過ごそうと考え、通常は父の死後受けるはずの財産を無理やり父に頼んで受け取り父と兄のもとを去って遠い国に旅立った。彼は遠い国で自分の望むような生き方ができたのだろうか。自分で堅実に働くことをせず財産をあてにして日々自分の欲にしたがって暮らすうちに財産はなくなり食べる物にも困りはじめた。彼は豚の世話をする仕事についたが、豚の食べるいなご豆さえも食物として与えてもらえなかった。このままでは死が訪れることを覚えた彼はそこで父を離れてからの自分の生き方が悲惨を招いたことを知り、父のもとに帰って前のように働く生活をしようと思い、今までの罪を悔い改めて父のもとに向かった。弟息子が家を離れてから一日も忘れることなく弟息子を覚え祈っていた父は、家に向かって歩む弟息子の姿を見るやいなや走り寄り、彼を抱いて口づけし家に招き入れて帰還祝いの宴会を催した。神は神に背いて罪を犯した者でも罪を悔い改めて神に立ち帰るものを赦し神の子として扱ってくださる愛と恵みに満ちた方です。
*****ことばの光****10月29日
城壁工事と防衛
城壁を築く者たち、荷を担いで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を握っていた。
ネヘミヤ記4:17
ペルシャのアルタクセルクセス王よりエルサレムの城壁を再建する為にユダの総督に任命されエルサレムにやって来たネヘミヤは祈りと調査と具体的工事プランを立てユダの指導者、民衆と共に城壁工事を開始した。人々の一致と協力により城壁工事は半分程完成した。ところがユダ周辺の支配者サンバラテ、トベヤらは強固な城壁となることを好まずこの工事を中止に追いこもうとして陰謀を企てた。サンバラテは工事の中に人をまぎれこませ、工事をする者たちを殺すことを企てた。このことを知ったネヘミヤは工事に従事する者支援する人たちに語った。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(ネヘミヤ記4:14)
その後工事に従事する者たち、城壁を築く者たち、荷を担いで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手で投げ槍を握って、まぎれこんで工事を妨害しようとする者たちに立ち向かった。私たちの信仰の歩みにおいて私たちを倒そうとして立ち向かってくる敵に対して勇敢に戦い勝利しなければならない。
「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」(エペソ6:11)
*****ことばの光****10月22日
エルサレムの城壁再建工事
その向こうでは、ベニヤミンとハシュプが自分たちの家のそばの部分を修復した。その向こうでは、アナネヤの子アマセヤの子アザルヤが自分の家の近くを修復した。
ネヘミヤ記 3:23
ペルシヤのアルタクセルクセス王に献酌官として仕えていたネヘミヤはユダ、エルサレムの悲惨な状況を聞き、数日の間嘆き悲しみ断食してユダ、エルサレムの復興を祈った。そんな折ネヘミヤの沈んだ顔を見たアルタクセルクセス王より声をかけられたネヘミヤは祖国ユダとエルサレムの惨状を語り、その復興の為にエルサレムに遣わして下さいと願い出た。
王はネヘミヤの願いを聞き入れ、ネヘミヤをユダ、エルサレム城壁復興の為に財的援助を与えて送り出してくれた。
エルサレムに到着したネヘミヤは夜ひとりで周辺を調査し、城壁再建のプランを祈りのうちに練りエルサレムの指導者たちを集めてプランを示し、共に神の栄光を現わす業を行うことを訴えた。指導者たちの賛同を得たネヘミヤは城壁再建の工事に取りかかった。大祭司から率先して工事に取りかかり、また人々は互いに協力して工事を進めた。その中で自分の家のそば、近くの城壁を修理した人々がいた。ベニヤミン、ハシャブ、アナネヤの子マアセアの子アザレヤであった。これはまず身近なところから始めることの大切さを示している。イギリスの国教会の聖職者で作家でもあったチャールズ・キングレーはこう述べている。「この世を改革する唯一の道は、私共がめいめい、その手近き務めを尽すことである。」
****ことばの光****10月15日
主の御名を呼び求める誓い
私はあなたに感謝のいけにえを献げ、主の御名を呼び求めます。
詩篇 116:17
詩篇116篇の作者は不詳だが主を信じ、主を愛する信仰者であることは明白である。この人は信仰の歩みの中で苦難に直面した。「死の網が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。」(詩篇116:3)
その苦難のただ中で、彼は主の御名を呼び求めた。そのとき私は、主の御名を呼び求めた。「主よどうか私のいのちを助け出してください。」(詩篇116:4)
主は彼の求めに答えて下さった。「まことに、あなたは、私のたましいを死から私の目を涙から救い出してくださいました。」(詩篇116:8)
彼は主が自分を苦難から救い出してくださったことに感謝し、彼のこれからの歩みに目を留めて新たな決意を表明した。これから後、主の御名を呼び求めるという誓いである。
「私はあなたに感謝のいけにえを献げ、主の御名を呼び求めます。」(詩篇116:17)
今後、彼は王に表明した誓いを自分と主との間のこととせず同じ主への信仰を持つイスラエルの民が集う神殿でイスラエルの民の前で主を呼び求めることを表明した。
「私は自分の誓いを主に果たします。御民すべての目の前で。」(詩篇116:18)
****ことばの光*****10月8日
主に立ち帰るならば生き返る
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
詩篇 23:3
詩篇23篇はダビデの作だがダビデの生涯のどの時季に書かれたかは記されていない。23篇の内容からダビデの生涯の終わりに近い頃、自らの生涯をふりかえり主の恵みと導きに感謝し主をほめたたえた詩篇と考えてもよいのではないか。
主への信仰において多くの人から尊敬をうけるダビデだが彼の信仰生活において恐ろしい罪を犯したことがあった。王として結婚していた身でありながら欲望にひきづられて人妻バテシュバと姦淫の罪を犯してしまった。即座に悔い改めるべきだったのに王の権力をもって罪を隠し通そうとした。主はこれを許さず預言者ナタンをダビデのもとに遣わしナタンはダビデの罪を指摘した。神の働きによりダビデは即座に罪を認め、主に立ち帰り罪を悔い改めた。主はダビデの罪を赦し彼の死んでいたようになっていた彼の魂を生き返らせた。彼と主との関係は回復した。
詩篇23篇の3節をダビデが恐ろしい罪を犯した後の主の取り扱いを記したものと考えると理解が深まる。「生き返らせ」と日本語に訳された原語ヘブル語の第一義的な意味は立ち帰る(悔い改める)であり生き返る(回復する)という意味もある。ダビデが自らの信仰生活の中で私たち信仰者に教え伝えたい霊的法則は、どのような状態であっても主に立ち帰る(悔い改める)ならば私たちの魂は生き返り(回復し)義の道(主のみこころの道)に導かれるということである。
****ことばの光******10月1日
悔い改めを命じておられる神
神はそのような無知の時代を見過しておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。
使徒の働き 17:30
アテネで同労者テモテとシラスを待っていたパウロは二人がパウロのもとに来たら次の伝道地に出発する予定だった。アテネの町を散策していたパウロは町が偶像であふれているのを見て、心に聖なる憤りを覚えて、突如イエス・キリストの福音を語りだした。パウロがイエス・キリストを宣べ伝えているのを知った町の者がパウロをアレオパゴスに連れて行き町の重要事項を決定する評議員たちの前でイエス・キリストの話をするように要請した。パウロは承諾してアレオパゴスの丘でイエス・キリストの福音を語った。
パウロはパウロが信じる神は天地を創造した神であることを宣べた。さらに神は歴史を導く神であることを語った。さらに神は神のひとり子イエス・キリストを罪からの救い主としてこの世に送りイエス・キリストは世の人々の罪のために十字架で身代わりの死をとげ三日目によみがえらせた。この救い主が罪からの救いの道を開かれたので、すべての人は神の前に罪を悔い改めイエス・キリストを救い主として信じるならば、神の子とされ神のさばきを免れることを説いた。パウロの語ることを聞いたアレオパゴスの裁判官ディオヌシオ、ダマリスという女の人、そのほかの人々が罪を悔い改めイエス・キリストを救い主と信じる信仰に入った。
****ことばの光*****9月24日
ネヘミヤの涙の祈り
このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間、嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。
ネヘミヤ記 1:4
紀元前446年ペルシャ王アルタクセルクセス王の献酌官であったネヘミヤはユダから来た数人とネヘミヤの兄弟のひとりハナニからユダとエルサレムの実情について報告を受けた。ユダにおいてバビロン捕囚から逃れてユダの地に残った者たちは大きな困難と恥辱の中にあり、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままであると。この報告を聞いたネヘミヤは座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食をして天の神に祈った。
ネヘミヤは神への祈りの中でまず自らを含めイスラエルの民が神に対して犯した罪を告白した。次に神がイスラエルの民に与えた約束のことば(申命記30:1~5)を神の前に持ち出し、約束のことば故に、今散らされているイスラエルの民を祖国に帰して惨状の中にいる祖国を復興するために、私に王よりのあわれみが受けられるようにしてくださいと祈った。ネヘミヤの涙の祈りは神に届き神はアルタクロルクセス王の心を動かしてネヘミヤをエルサレムに送ったので、ネヘミヤはエルサレムの城壁を再建することができた。
*****ことばの光****** 9月17日
神はどのような方か
あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。
イザヤ書 40:28
神はどのような方か、人間の頭であれこれ考えても知ることはできない。それなら人間は神を知ることをあきらめるべきだろうか。
神は神がどのような方であるのかを人間に知らせるためにご自分の方から聖書を通して知らされた。預言者イザヤに対して神はどのような方かを示されたのが、イザヤ書40章28節から30節である。
神は永遠の神である。神はすべてが存在する前に存在しておられ永遠から永遠に存在する方である。神は創造の神である。創世記1:1には「はじめに神が天地を創造された。」と記されている。すべての存在物の前に存在していた神が天地、すなわち宇宙と地球を創造され、神によって創造された被造物が存在するようになり今日に至っている。
さらに神は人間のように活動したら疲れたり、病などで弱くなることがなく、活動することができる方である。神が持ちあわせている英知は人間が持っている英知にくらべて人間が測り知ることができないほどすぐれていて、人間が神の前にひざまずきひれ伏して受け取ることができてもほんのわずかである。
****ことばの光**** 9月10日
助けはどこから来るのか
私は山に向かって目をあげる。私の助けはどこから来るのか。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。
詩篇 121:1,2
詩篇 121篇は都上りの歌とされる。イスラエル各地から成人となった男子はエルサレムの祭に参加神はするために上っていった。長旅の疲れや困難に直面して気落ちした時に主に思いをはせ主に祈りながら前進して行った。そういう旅の中で主に呼び求めた時、主が困難から救い出してくれた経験をした者が、「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から」(詩篇121:2)と確信をもって語ったのである。
主が助けて下さると確信をもって語った者は、エルサレムの祭に向かう者たちのためにも自らの確信に立って主がどのような場合にも助けて下さるので、主に頼りながら、エルサレムに上っていくようにと語りかける。
主はまどろむこともなく、眠ることをしないでエルサレムに上る者を導き守って下さる「見よ、イスラエルを守る方は、まどろむことなく眠ることもない。」(詩篇 121:4) 「主はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られる。」(詩篇 121:7)
山梨県北杜市高根町清里にある清泉寮の入口にはアメリカからの宣教師で教会、清泉寮を建て周辺の町村の農業復興にも力を尽くしたポール・ラッシュ博士が心の糧としていた詩篇121篇1,2節のみことばが掲げられている。
*****ことばの光***** 9月3日
神の驚くべき愛の現われ
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。
ヨハネの福音書 3:16
神はすべてに先行する方である。
聖書のメッセージを要約したヨハネの福音書3章16節は人間の働きに先行して神が人間の為に行動したことを記している。神の行動とは人間が滅びることを許さず、人間を滅びから救い出すために神の最も愛するひとり子イエス・キリストを手放し、十字架で人間の罪の身代わりとして死なせたことだった。神は人間(世)をご自身のひとり子を犠牲にしてまでの驚くべき愛をもって愛された。神の驚くべき愛は人知を越えた愛であるので人間はどれだけその愛を理解し悟ることかできるであろうか。神がご自身のひとり子を犠牲にまでして十字架で示した驚くべき愛によって人間は罪を悔い改め十字架で私たちの罪の身代わりとなったイエス・キリストを罪からの救い主と信じる時、罪ゆるされ神の子とされ神が与える命(永遠の命)を与えられるのである。永遠の命を持つ者は神のみもとに行くことができる。何という感謝な賜物ではないか。イエス・キリストを罪よりの救い主と信じた者はその信仰を様々な誘惑に神の助けにより勝利して御国(神のみもと)に到るまで保ち続けねばならない。
****ことばの光***** 8月27日
水の試練
モーセが主に叫ぶと、手は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。
出エジプト記 15:25
エジプトを出たイスラエルの民は追ってきたエジプト軍に捕らえられる危機に直面したが主のくすしいみわざによって海の渇いた地を渡り危機を脱出することができた。
その後シェルの荒野に向かったイスラエルの民は新たな試練に直面した。荒野を歩けど飲む水を見い出すことができなかった。マラに着いた時イスラエルの民は歓声をあげた。それは水を見い出したからである。喜んでさっそく飲んでみると何と水は苦くて飲める水ではなかった。歓声は不平のつぶやきとなってモーセに向けられた。イスラエルの民は主に祈り求めるべきだったのに、苦き水の不満をモーセにぶちまけた。モーセは民をしからず、主に向かって見い出した水が苦くて飲めず民が不平を鳴らしているのでどうか主が助けてくださるようにと祈り求めた。主はモーセに一本の木を示し、その木を苦き水の中に投げ入れるように語った。モーセが主が示されたようにその木を苦き水の中に投げ入れると水は甘くなり、イスラエルの民はその水を飲んで喉をうるおすことができた。
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(ローマ10:13)
****ことばの光******8月20日
主の臨在に生きよ
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
詩篇 16:8
信仰者にとって幸いな生活とは主とともに歩むこと、主の臨在に生きる生活である。ダビデは詩篇16篇において主の臨在に生きるとき主がダビデを導き豊かな恵みにあふれさせてくださることを歌っている。
主の臨在に生きる生活は、信仰者自らが自覚的に日々主に目を向け主との交わりを求めなければならない。ダビデは目覚めた時、まず主の臨在を求めた。「私はいつも、私の前に主を置いた。」(詩篇16:8)
これぞ主の臨在に生きる第一歩である。そうして歩むなら主が信仰者の右にいて弁護者、守護者となってくださるので信仰者はゆるぐことはない。「主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)
主の臨在に生きた信仰者は、エノク、ノア、アブラハム、ヨセフ、モーセ、ルター、ウエスレー等といますが、私たちの救い主イエス・キリストの父なる神との交わり主の臨在に生きたことを忘れてはいけません。主イエス・キリストも自覚的に主の臨在を求めて朝早く起き荒野で日々祈ってから活動をされたのでした。
****ことばの光*****8月13日
常に心がけること
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
テサロニケ1 5:16~18
パウロはテサロニケの教会のキリスト者たちにキリスト者として日々どのように歩むべきかを書き送った。パウロはイエス・キリストの十字架の死について言及し、主イエス・キリストが十字架で死んでくださったのは、キリスト者となった者が、主と共に生きるようになるためであると語りました。
「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。」(テサロニケ15:10)
キリスト者生活とは主イエス・キリストとともに歩むことです。主イエス・キリストとぶどうの木と枝のようにつながって主とともに歩む生活こそ幸いな生活です。
主とともに生きることを根底としてパウロはキリスト者の具体的な生活のなかで常に心がける三つを示します。いつも喜ぶこと、絶えず祈ること、すべてのことにおいて感謝することの三つです。喜べないような状況になった時、主イエスを見上げ語りかけみことばに思いをはせ、祈るなら、主よりの喜びが与えられます。祈りは祈らなかったり祈ったりではなく呼吸のごとく絶えず祈りましょう。困難な時、試練の時でも何か主より与えられたことを思い起こし感謝して祈りましょう。
****ことばの光*******8月6日
永遠の愛と真実の愛をもって人を愛する神
永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。
エレミヤ書 31:3
神の民イスラエルは神に反逆して神以外の偶像を拝んだ。しかし神はイスラエルをすぐに滅ぼさずイスラエルが罪を悔い改めて神に立ち返るのを待ち望んだばかりか、反逆したイスラエルを変わることのない永遠の愛をもって愛された。さらにイスラエルに約束した神のことばどおりイスラエルの民を愛し続けた。約束したことばどおりイスラエルに行ったので神は真実の神であり、真実の愛をもってイスラエルに接したのであった。
人間の持つ愛は一時的であり永遠に続かず人間同志で約束したことも守ることができない不真実な愛であるが、神が人間を救う為にこの世に遣わしたイエス・キリストは永遠の愛と真実の愛をもって人々を愛された。
イエス・キリストは病める人々をいやし、また人間の悩みの根本的原因である罪を解決する為にご自身罪がないのに人間の罪の身代わりとして十字架で死なれて人間の罪のゆるしと神と和解して神と交わる道を開かれた。人が心より罪を悔い改めイエス・キリストを救い主と信じるならば、罪ゆるされ神の子とされ神と交わることができるのです。
****ことばの光******7月30日
主の導きと守り
あなたがたは慌てて出なくてもよい。逃げ去るように去らなくてもよい。主があなたがたの前を進み、イスラエルの神がしんがりとなられるからだ。
イザヤ 52:12
預言者イザヤは神によって預言者として召されて神のことばを受けて神のことばをイスラエルの民に語ったがイザヤが神との交わりを重んじ深く神のみこころを求めて歩んだので神はイザヤに神の隠れたみこころをも啓示することをよしとした。
イザヤ書52章11~12節はイザヤの活動していた時代の預言ではなくその先のバビロン捕囚からイスラエルの民が故郷イスラエルに帰還することを神がイザヤに示された箇所である。
神はかつてイスラエルの民がエジプトから故郷に帰還した出来事を取りあげそれと比較してバビロンより帰還する際は出エジプトのように慌てて出る必要はないと語っている。バビロンから出る際には、罪、汚れから身を清めて出なければならないと語りそのうえで主の導きと守りに信頼して旅路を歩むようにと語っている。「主があなたがたの前を進み、イスラエルの神がしんがりとなられるからだ。」(イザヤ52:12)
主はバビロンより帰還するイスラエルの民を前を進まれて、またしんがりとなって後から守られるとは何という恵みだろうか。バビロンから帰還したイスラエルの民はイザヤが神より示された神のことばに信頼して帰還したのではないか。
****ことばの光****** 7月23日
主は生きておられる
私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。
列王記 Ⅱ 17:1
預言者エリヤがどのようにして主なる神を信じるようになったのか、またどのようにして主より預言者として召されて預言者になったのか聖書は記していない。
異国の偶像を拝むイゼベルと結婚してまことの神を拝まず偶像を礼拝しイスラエルの民にも偶像を拝むことを求めて彼以前のどの王よりも主の前に悪を行なったアハブ王の治世に主はエリヤを遣わした。エリヤはアハブ王のような悪を行う権力者の前に出ても少しも恐れることはなかった。エリヤの信仰は主以外には何者も恐れる者はいないということ、また自分が身を低くして仕えるのは生きて全能の力をもって働かれる主なる神であるという信仰であった。
主はエリヤに「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは鳥に、そこであなたを養うよう命じた。」主のことばを受けたエリヤはケリテ川のほとりに行って住んだ。主のことばどおり、何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んできたのでエリヤはそれらを食べ、川の水を飲んだ。
主によって養われたエリヤ。主に全く信頼して主に仕えるエリヤ。私たちの主への信頼もかくありたい。
*****ことばの光*******7月16日
主に求めよ。行くべき道を
私はあなたが行く道であなたを教え、あなたを諭そう。あなたに目を留め助言を与えよう。
詩篇 32:8
私たちが人生の岐路に立った時、どの道を行くべきか悩む時があります。詩篇32篇の作者ダビデもどの道を行くべきか悩むことがありましたが、そんな時ダビデは主に求め行くべき道を示してくださいと主に祈りました。主はダビデに行くべき道を示してくださいました。ダビデは自らの経験から主が彼に語りかけてくださったみことばを書き残しました。
「私はあなたが行く道であなたを教え、あなたを諭そう。あなたに目を留め助言を与えよう。」(詩篇 32:8)
今日私たちがどの道を行くべきか思い悩む時、私たちはダビデにならい主に求めましょう。主は私たちの行くべき道を示してくださいます。主はみことばを通して私たちに行くべき道を示してくださいます。
主イエス様の語ったみことばの真意が理解できず、主から離れて行った者たちがいた時主イエス様は十二弟子に「あなたがたも離れて行きたいのですか」と問いかけました。
その時ペテロはこう答えました。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」(ヨハネ6:68)
私たちキリスト者に人生の行くべき道を示してくださるのは主であり、主のみことばです。
******ことばの光*******7月9日
主の翼の下に身を避けたルツ
主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から豊かな報いがあるように。
ルツ記 2:12
イスラエルの地が飢饉におそわれた為、ナオミ一家はモアブの地に逃れて住んだ。しかしモアブの地で夫が死んだ。深い悲しみの中でナオミは二人の息子と共にモアブの地で生きることを選んだ。二人の息子はモアブの女と結婚し、ナオミは二人の息子と嫁たちと共に十年暮らした。ところが二人の息子も死んでナオミは故郷ベツレヘムに帰ろうとした。二人の嫁たちはナオミとベツレヘムに同行するとナオミに申し出たがナオミは二人の嫁にモアブの地で新たな結婚相手を見い出して幸いに暮らすように強く勧めた。オルパはナオミの提案に従ってモアブの地に残ることに決めたがルツはナオミが信じる神に信頼してナオミと共に生きる道を選択してナオミから離れようとはしなかった。ナオミはルツと共にベツレヘムに帰って暮らした。ルツは主なる神に信頼しつつかいがいしく落ち穂を拾い集めて暮しを支えた。神は神を信頼してナオミと共にベツレヘムに来たルツを導きボアズと出合わせボアズとルツは主によって結婚しダビデの祖父にあたるオベデが生まれた。主の翼の下に身を避け主に信頼したルツは主に祝福され救い主イエス・キリストが生まれるダビデの家系に連なる者となった。
******ことばの光*******7月2日
失われた一人を捜し求める神
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。
ルカによる福音書 19:10
エリコの町の取税人の頭のザアカイは取税人の頭まで登りつめた時、喜びと満足がなく自分が思い描く人生ではなくて、すっかり迷い出してしまったと感じて悩んでいた。でもどう求めていっていいかわからずにいた。そんな時人々が救い主が現われたとうわさしていたイエスがエリコの町に出現したということで町が騒然となっていた。イエスの後についていく群集の数の多さで背の低いザアカイはイエスの姿を見ることができなかった。どうしてもイエスを見たいと必死に願ったザアカイはイエスの後に続く群集の先を走り大きないちじく桑の木に登ってイエスの姿を見ようとした。道を歩いていたイエスはいちじく桑の木の下まで来ると上を見上げ「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」とザアカイに声をかけられた。ザアカイは急いで木から降りて来てイエスを自分の家に迎え入れイエスと語り合った。イエスはザアカイの悩みを聞き、新しい喜びの生き方を示した。ザアカイは罪を告白し悔い改めイエスを救い主と信じ、希望と喜びの人生を送るようになった。
*****ことばの光***** 6月25日
エズラの信仰
それは私が、道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを、王に求めるのを恥じたからであった。実際、私たちは王に「私たちの神の御手は神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたのである。 エズラ記 8:22
紀元前539年ペルシャ王キュロスの勅令によりイスラエルへの帰還を許されイスラエルに帰った人々がいたが、バビロンに残っていたイスラエルも多くいた。紀元前458年エズラはバビロンに残っていたイスラエル人1754人を引き連れてエルサレムに向かった。エルサレムまでの道中には強盗などが出没することがよくあった。しかしイスラエル人を導くエズラはペルシャの王アルタクセルクセス王に仕え王からも深い信頼を得ていたので王に頼めばエルサレムへの道中に護衛をつけてもらうのは可能であったのにあえて王に護衛をつけてもらうことをしなかった。
それは日頃王との会話の中でエズラは神を証しし、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者に幸いを下し、その力と怒りは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたからである。神は神を求める者を守る方と言ったのに王に守りを頼むのは信仰者の在り方ではないと考えたので王による守りを求めなかったのである。自らの信じる神に対する全き信頼と神と信仰の事に対して自らが語ることに反することは断じてしないというのがエズラの信仰である。
***ことばの光*******6月18日
憎しみに打ち勝つもの
憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう。
箴言 10:12
自分の神へのささげ物は受け入れられず、弟アベルの神へのささげ物が受け入れられたことに怒り、弟への憎しみを持ったカインに対して「罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」と神はカインに罪(憎しみ)を治めるように警告したがカインは神の警告を聞かず弟を野に誘い出して殺してしまった。私たちの心にある怒り、憎しみに代表される罪の力は恐ろしく破壊的な力がある。
人間の持つ破壊的な罪を治める愛を人間に示す為に、自らが十字架で罪の身代わりとなって死なれた方がイエス・キリストであった。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネの手紙第一 4:4)
イエス・キリストの愛が私たちの罪をおおいゆるしてくださったのです。この愛は神の愛で無償の愛です。罪をおわびし告白してイエス・キリストを救い主と信じた者(キリスト者)は、罪が暴れさわぐ時、主イエスを仰ぎ、主よりの無償の愛をもって罪を治めることができるのです。
****ことばの光****** 6月11日
主の御手が彼の上にあったエズラ
このエズラがバビロンから上って来たのである。彼はイスラエルの神、主がお与えになったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをすべてかなえた。 エズラ記 7:6
バビロンを倒して周辺国を統治したペルシャ王クロスによって故郷イスラエルに帰国が許されたイスラエルの民は神殿建設にとりかかったが妨害が入ってしばらく神殿建設を中断していたが預言者ハガイがゼカリヤの神よりのことばに励まされて神殿建設を再開し紀元前515年に神殿は再建された。ソロモン時代に建てた神殿に比べて規模は小さかったがイスラエルの民は神の恵みと導きに感謝し神を礼拝することを中心とする新しい歩みを始めた。
神殿が再建されてから57年後にバビロン捕囚によってバビロンに連れて行かれ、その地に残っていたイスラエルの民を引き連れてエルサレムに戻ってきたのはアロンの子孫のエズラであった。彼はバビロンの地での主の律法の学びを深めた。彼は主の律法を実践していたので神も彼と共にいて神の御手が彼の上にあったので、滞在していた王も彼に惜しみなく援助してくれたので無事エルサレムに多くの民と共にたどり着いた。故郷の地の人々の信仰の覚醒のために主の律法を明確に語り主の律法を実践すべきことを説いたのでイスラエルの民は罪を悔い改め主の律法を実践したのでイスラエルの民は主によって祝福された。
*****ことばの光*******6月4日
神の栄光、臨在を体現されたイエス・キリスト
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 ヨハネ 1:14
旧約時代、神の栄光、臨在は雲のうちに示された。モーセの時代、神の指示に従ってモーセが会見の天幕である幕屋を完成した後、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。(出エジプト40:34)
さらに時が経て預言者ゼカリヤはこのように預言した。「娘シオンよ、喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。」(ゼカリヤ 2:10)
ゼカリヤが預言したとおりに、イエス・キリストは、神であられるのに人間の肉体をもって、人々のうちに住まわれた。ナザレのヨセフ家の子として母マリヤより生まれ、三十才までナザレで暮らした。父なる神よりの示しを受けてナザレの家を出てイスラエルの北から南に至るまで神のことばと神の福音を宣べ伝えた。三年の宣教の業を終え、エルサレムで祭司長、律法学者たちにより十字架につけられて死なれた。この死は私たち人間の罪を贖うための死であった。死後、三日目によみがえり、弟子たちに現れて神のことばと神の福音を語った後、父なる神のもとに召天された。神の栄光と臨在を体現され人間のうちに住まれたイエス・キリストこそ私たちが求めるべき救い主である。
****ことばの光******5月28日
人の歩みを確かにされる神
人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。 箴言 16:9
イエス・キリストがたとえで話した話である。 金持ちの畑が豊作であった時、彼は心の中であれこれ思い巡らして「今ある倉を壊して、 もっと大きいのを建て、とれた穀物や財産をそこにしまっておこう。そうしたら自分にも言 い聞かせよう。「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、 楽しめ。」金持ちのこの計画に対して神は、「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから 取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」と神により頼まな い自己中心的な計画を叱責された。 ヨセフは父ヤコブに他の兄弟たちにまさって愛された。また見た夢を兄弟たちに得意げ に語った。それは兄弟たちの束がヨセフの束を拝むという夢だった。兄弟たちはヨセフの高 慢な態度をうらみ、父ヤコブの依頼でヨセフが羊を飼っている兄弟たちのために食物を持 って来た時にヨセフを穴に投げ込んだ。その後ヨセフをエジプトに行く隊商に売りつけた。 兄弟たちによりエジプトに売られたヨセフはエジプトでの生活の前に兄弟たちに対して取 っていた態度が神の前に高慢であり罪であったことを認め悔い改めたと思われる。ヨセフ はエジプトでの生活が始まる前に自分の将来も神にゆだね神の導きの下、神に従って生 きる道を選択した。神はヨセフとともにいてヨセフを導きエジプトを治める者となり兄弟た ちとも和解して多くの人々の命を救った。神に将来をゆだね神とともに歩む人の歩みを神 はゆるがなく確かなものとされる。
***ことばの光*******5月21日
聖なる方の御前に立つ
神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
出エジプト記 3:5
モーセはエジプトの地で王女の息子として育ったが自らはヘブル人の血をひく者であることは自覚していた。ある日ヘブル人の同胞がエジプト人に打たれているのを見た時、血が騒ぎエジプト人を打ち殺してしまった。そのことが発覚してモーセはエジプト王のもとから離れミディアンの地に移り住み、そこでミディアンの祭司レウエルの娘と結婚し羊を飼う者として過ごした。エジプトの地で犯した罪を悔い改め神と共に歩む日々を過ごしていたモーセに神はホレブの山で声をかけられた。「モーセ、モーセ」と声をかけられた神はモーセが「はい、ここにおります」と答えられた時、「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」と語られた。神はモーセに使命を与えようとしてモーセに近づかれたが、神ご自身と神の臨在するところは聖であることを示すためにこう語られたのである。聖とは区別する意味であるが語りかける神が人間とは区別されるべき超越した存在であるので、汚れた履き物を脱ぎ(汚れをきよめ)ひきさがって神の前に立つことを神はモーセに求めたのである。神の前に立つことに慣れてはいけない。たえず神の臨在を覚え、恐れおののき罪を悔い改め御前に立つことが求められる。
*****ことばの光****** 5月14日
主に仕えたアブラハム
彼は言った。「主よ。もしよろしければ、どうか、しもべのところを素通りなさらないでください。水を少しばかり持って来させますから、足を洗って、この木の下でお休みください。」
創世記 17:3,4
九十九才のアブラハムが、マムレの樫の木の天幕の入口に座っていた時、三人の旅人がアブラハムの天幕に向かって立っていた。アブラハムは急いで彼らを迎えようと走って行き地にひれ伏して彼らに彼の天幕でしばしの時を過ごすように求めた。彼らは承諾して天幕に入った。アブラハムは急いで妻サラに高価な小麦粉でパン菓子を作るように、若い者に子牛を渡して料理を作るように指示した。その後できあがった子牛の料理と凝乳と牛乳を旅人らのところにもって来て彼らにふるまった。
族長の自らがかいがいしく動いて給仕した。アブラハム自身もウルからカナンの地に移り住んだ旅人で旅人の苦難を経験していたので旅人に対して犠牲をいとわず心をこめかいがいしく仕えたのであった。アブラハムが仕えた旅人は主なる神であり、主はアブラハム夫妻に来年約束の子が生まれることを告げに来たのだった。主のことばどおり、次の年、主は主のくすしいみわざによりアブラハム夫妻に彼ら自身の子イサクを授けられた。人に真実に仕える者を主は祝福してくださるのである。
******ことばの光****** 5月7日
イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはな い。」と言われた。 マタイ 14:27
五つもパンと二匹の魚を用いて五千人を超える群集が満腹するほどの食を供給された イエス・キリストはひとり祈るために山に登られた。弟子たちは舟に乗り込み、ガリラヤ湖の 向こう岸に向かった。夕方になっていたので、強風が吹きだし、舟は進まなくなった。弟子 たちは風がさらに吹きあれたら死をも覚悟しなければならないと恐れた。湖上に人影が見 えたが弟子たちは幽霊ではないかと恐れふためいた。その時イエスは弟子たちに語りかけ られた。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と。 イエスはあなたがたが恐れている幽霊ではなくあなたがたの師であるわたしだ。もう恐 れることはないと弟子たちを安心させることばをかけられたのである。モーセに神が現わ れた時「わたしは『わたしはある』という者である。」(出エジプト 3:14)と神がモーセに語 られた時、「わたしはある」とは神ご自身を示す名であったが、イエス・キリストが「わたしだ」 と弟子たちに語った時、ご自身が神であることを弟子たちに示したのである。人生の嵐に もまれても神であるイエスを信じイエスが共にいるなら恐れあわてることはない。その後、 弟子たちは無事向こう岸に着いた。
****ことばの光*******4月30日
神が喜ばれる信仰
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。 ヘブル 11:6
神が信仰者に求めることそれは神に対する全き信頼、信仰です。神が求め、喜ばれる信仰についてヘブル人への手紙の作者は二つのことを求めます。第一に神がおられることを信じることです。神の存在について確信が持てないなら、神への信仰が生まれてはきません。第二に神に求めるなら神はその求めに対して報いてくださる(答えてくださる)ことを信じることです。
目が見えず路上で物乞いをしていたバルテマイは、イエス様がお通りになるという群集の声を聞いて必死に「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫びました。ところが群集が彼を黙らせようとしかりつけました。しかしバルテマイはさらに大声でイエス様に自分をあわれんでくださるように求めました。イエス様はバルテマイを求めを聞いて彼を呼び寄せ、彼の「目が見えるようにしてください。」の求めに答えられ、彼は目が見えるようになりました。バルテマイはイエス様は求める者には報いてくださると信じてイエス様に求めたのでそのとおりになったのです。
****ことばの光***** 4月23日
マラからエリムへの旅
モーセが主に呼ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。 出エジプト 15:25
主のあわれみによりエジプトから脱出できたイスラエルの民はイスラエルの民を再び働かせようと追ってきたエジプト軍が背後に迫り前方は海で大きな危機に直面した。しかし主への信仰に立ったモーセと主のみわざによって危機より脱出できた。イスラエルの民は主の大いなるみ業をほめたたえた。危機を脱したイスラエルの民はシェルの荒野に進んで行きマラに到着した。マラに到着するまで水がなかったイスラエルの民はマラで水を発見して喜んだが、その水を飲んでみると苦くて飲めなかった。イスラエルの民は指導者モーセに向かって不平を鳴らし「われわれは何を飲んだらよいのか」と言った。イスラエルの民はこのような時、主に祈るべきだった。民の不平を聞いたモーセは民に怒るのではなく主に叫び求めた。主はモーセの叫びに答えて一本の木を示された。モーセがその木を水の中に投げ込むと水は甘くなり民はその水を飲んだので渇きはいやされた。
イスラエルの民はさらに進んでエリムに到着した。エリムはマラとちがって十二の泉と七十本のなつめやしの木があり、イスラエルの民はしばらくエリムに滞在した。信仰者の神の国への旅路には途上マラが存在するが主に叫び求めるなら主は必要なものを備えて下さる。信仰者のめざす終着点はエリムのごとく豊かにすべてが備えられたところで永遠の滞在所である。
****ことばの光****** 4月16日
イエスを仰いで走る信仰のレース
信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。
ヘブル 12:2(聖書協会共同訳)
イエス・キリストを信じた時から始まる信仰のレースのゴールは神のもとなる御国である。ゴールに到達するまで途上いかなる苦難や失敗があろうともレースを放棄せずゆっくりであっても走り続けなければならない。ヘブル人への手紙の作者は信仰のレースを走り抜くための秘訣を示してくださった。
第一はレース中に経験する重荷とまとわりつく罪を捨てて走ることです。オリンピックなどの百メートルレースを走る選手が重いオーバーを着て走ることはありません。重荷は神にゆだね、罪は主イエス・キリストの前に悔い改めて心を軽くして走ることです。
第二にレース中に仰ぐべき方は私たちの信仰の創始者であり完成者なるイエス・キリストであるということです。レース中に苦難や試練に直面したらイエス・キリストを仰ぎ、イエス・キリストに祈り求める時イエス・キリストは御自身が様々な試練の時に対処した忍耐を示してくださいます。
御国での父なる神、主イエス・キリスト、聖霊なる神との喜ばしい出会いを期待して信仰のレースを走り抜きましょう。
****ことばの光****** 4月9日
安息日を変えたイエス・キリストの復活
このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
使徒の働き 2:32
イエス・キリストが祭司長、律法学者たちによって捕えられた後弟子たちは自分たちも捕えられるかもしれないと考えイエス・キリストが捕えられたことに抗議するどころか身を隠していました。イエス・キリストが十字架で死なれアリマタヤのヨセフの墓に埋葬されたことを聞いた時には生きる希望も失い心空しく過ごしていたのです。この時弟子たちの誰ひとりもイエス・キリストはよみがえることを思っていませんでした。イエスを信じ慕っていたマグダラのマリヤも他の女性らも日曜日の朝イエスの死体に香油を塗るために墓に行ったのでした。復活したイエスは彼女らに現われ、その後弟子たちに現われました。生きる希望を失い心むなしくなっていた弟子たちは復活したイエスを見た時生きる希望が与えられさらに弟子たちは復活したイエス・キリストから福音を全世界に宣べ伝える使命を受けたのです。
この後弟子たちが聖霊によってイエス・キリストの福音を伝えたので福音は全世界に広がりキリストの教会が建てられました。イエス・キリストが復活した後できた教会においてユダヤ人の慣例で土曜日に礼拝をしていましたがイエス・キリストが復活した日曜日を礼拝する日としたのです。それほどイエス・キリストの復活は大きな出来事だったのです。
****ことばの光*******4月2日
イエスとは誰か
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
マタイ 16:15~16
イエスと弟子たちがピリポ・カイザリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。弟子たちは「バプテスマのヨハネだと言う人たちもエリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」と答えた。父なる神に示されナザレの家を出て神のみこころを人々に伝える為にイスラエル中をめぐり神のみことばを語り病める人々をいやしてきたイエスは、人々がイエスのことを誰であると認識しているかを弟子たちに尋ねたのであった。人々はイエスの語ることばを聞き、また病める人をいやされるのを見て神から遣わされた預言者と見なしていた。しかし、この見解はイエスが望むものではなかった。
それでイエスは、イエスの間近かでイエスを見てきた弟子たちはどう認識しているのかを弟子たちに尋ねた。弟子たちを代表してペテロは「あなたは生ける神の子キリストです。」と答えた。イエスが望んだ答えをペテロがしたのでイエスは喜び、ペテロがこの答えをしたのは背後にて父なる神が働きペテロを導いたと言われた。今日においても心よりキリスト(救い主)であり生ける神を求める者にはペテロがした告白に至らしてくださる。
****ことばの光******3月26日
主は身を避けるわが岩
主はわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神、わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
詩篇 18:2
ダビデは幼い時より神を信じ神に信頼して歩んだ。羊飼いの仕事を任せられると神に信頼しつつ忠実にその仕事を行なった。預言者サムエルによってイスラエルの王となることを示されたがそれで高ぶることもなく与えられている仕事を続けた。イスラエルの王サウルに見いだされてサウル王に仕える家臣となった。戦いに出陣して大きな成果をあげたので民衆の人気が高まりサウル王をしのぐほどになった。この時以来サウル王はダビデが王の座を奪うのではないかと恐れダビデの命をねらうようになった。ダビデは王宮を離れて荒野をさまようようになり、ある時は荒野の岩の洞穴に隠れていたが、ダビデを追うサウル王と家来がその洞穴にまで入って来た。この時神の奇しい守りのうちにダビデは発見されることなく命をとられることもなかった。
ダビデは敵に命をねらわれたのに神が守ってくださったことを感謝し、詩篇18篇を記したのであった。主こそは本当にダビデが身を避ける岩であった。その体験を「この主を呼び求めると私は敵から救われる。」(詩篇18:3)と歌った。どんな丈夫な建物より主に信頼し主を避け所とする者は幸いである。
****ことばの光********3月19日
主イエス・キリストを着よ
主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心用いてはいけません。
ローマ 13:14
パウロはローマ教会のキリスト者たちに現実に起こっている事柄に対しても神のみこころを求めつつ対処することを勧めますが、忘れてはいけない終末的な視点を持って生活をすることを求めます。それは主イエス・キリストが再びお出でになり全世界をさばき、キリスト者を御国に導く全き救いの完成の日が近づいているので、その為に心を整え、キリスト者でない世の人々のように闇の業に関与せず神のみこころにそった昼の生き方をしなさいとの勧めです。全き救いに入れられる日が近いというのは人間が考える時の近さではなく、神の考える時の近さであり、その時が確実に来ることの宣言です。その日が確実にくるのですから、日々備えなければなりません。その日に備える為にパウロは筆を進め、「主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。」 ローマ 13:14)と語りました。
若き日アウグスチヌスは、性的肉欲を断ち切れず、死に至らんと思いつめていた時、子供らの声が聞こえて来ました。「取りて読め、取りて読め。」と。その声に促されて彼は聖書を手に取り開いて読みました。開いた箇所はローマ人への手紙13章14節でした。彼は自らの罪を悔い改めイエス・キリストを救い主と信じ、新しい生活に進み聖書の真理を解き明かす神学者となりました。
****ことばの光****** 3月12日
異邦人の王に働きかける神
ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し、また文書にもした。
歴代誌 Ⅱ 36:22
歴代誌の作者はアダムより筆を進めて特にイスラエル、ユダの王たちがまことの神に対してどのように歩んだのかを記して後の世代の為の教訓とした。歴代誌の作者は模範の王としてダビデをあげダビデがいかに神のみこころを求めて信仰者として真実に生きたかを記した。ダビデ、アサ、ヨシュア、ヒゼキヤなどの神を求め神に従う王がいた一方でイスラエル、ユダにおいてより多くの王がまことの神より離れ偶像の神を拝み、よって民までが偶像を拝むようになった。預言者によるたびたびの偶像を拝まずまことの神を拝むようにとの警告を無視したのでユダ王朝最後の王ヒゼキヤの時、主なる神はバビロン王によるエルサレム陥落とユダの多くの民をバビロンに捕囚の民として移した。しかし主なる神はユダの民を神の時にバビロンから脱出させる計画を立てバビロンを倒して新しい王となったペルシア王キュロスに語りかけキュロスの心を奮い立たせてユダの民をバビロンから脱出させ祖国に帰らせる詔書を書かせた。歴代誌はバビロンより帰るユダの民の新しい希望が示されて筆がとじられた。
*****ことばの光*******3月5日
失われた者を捜して救うために来た方
「ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
ルカ 19:5
エリコの町の取税人の頭のザアカイは自分の生き方に納得がゆかず思い悩んでいた。取税人になる時は高収入に魅力を感じ、人々から喜ばれない仕事だとはわかっていたが、暮しが裕福になれば人々の取税人に対する態度も押えつけることができるだろうと高を括った。才覚もあったザアカイは出世して取税人の長に登りつめ収入も増して生活は裕福になったが人々の彼に対する視線はきびしく心打ち明けて語り合える友もなく取税人になったことを後悔していた。そんな時神のことばを人々に語るイエス・キリストは身分や職業に差別をつけることもなく人々に接しイエス・キリストを信じ慕う人々が多くおこされていることを聞いた。イエス・キリストに会い、その語ることを聞いてみたいと思った。イエスがエリコの町に来たことを聞いたザアカイは急いでイエスのいるところにかけつけたが、すでに群集がイエスを取りまき、イエスを見ようとしても身動きできなかった。とっさに先の方に走りいちじく桑の木に登りイエスを見ようとした。イエスはザアカイに対してあなたの家に泊まることにしているから急いで降りて来なさいと声をかけた。ザアカイの家でザアカイはイエスに心を打ち明けイエスを救い主と信じてイエスと共に歩む新しい人生が始まった。
*****ことばの光******* 2月26日
イエスの言うことを聞け
あおのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」
マルコ 9:7
イエスは内弟子のペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登られた。すると彼らの目の前でイエスの御姿が変わった。衣は非常に白く輝き、この世の職人にはなし得ないほどの白さであった。イエスの御姿が変わっただけでなく、エリヤとモーセが現われ、イエスと語り合っていた。ペテロはこの光景に感激してイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ、造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」
この声がした後、イエスと話していたモーセ、エリヤの姿はなく、イエスだけがおられるのを三人の弟子は確認した。高い山でイエスの栄光を見せられたペテロは感激し自分を忘れるほどにひたっていたが天よりの声をもって神がペテロと二人の弟子に示したことは父なる神が遣わしたイエスに目を注ぎイエスのみに聞き従うことが信仰者にとって大切であるということだった。
*******ことばの光******2月19日
懼るるな、ただ信ぜよ
イエス其の言を傍より聞きて、會堂司に言ひたまふ「懼るな、ただ信ぜよ」
マルコ 5:36(文語訳)
ガリラヤ湖のほとりでイエスは群衆にとり囲まれていた。これから群集にみことばを語ろ うとした時、会堂司のヤイロという人がイエスの足もとにひれ伏して言った。「私の小さい 娘が死にかけています。どうかおいでになって娘の上に手を置いてやってください。」 イエスはヤイロと一緒に娘のいる家に向かった。ヤイロの家に向かう途上群集の中のひ とりの女が信仰をもってイエスの衣に触れた時、病がいやされた出来事があった。そんな 時会堂司ヤイロの家から人々がイエスのもとに来て会堂司の娘が亡くなったので家まで 来ていただく必要がない旨をイエスに告げた。 これを聞いてイエスは「懼るな、ただ信ぜよ」と語られた。長血の女がイエスにはできると 信じて衣にさわったように、神であるイエスにはどんな悲観的な状況でも人間の力を越え て大いなるわざをなすことができるとひたすら信じていなさいと語ったのである。会堂司の 家に入ったイエスは泣きわめている人々を外に出し娘の父母と弟子たちだけを連れて娘 のところに行き娘の手をとって「タリタ、クム」「 少女よ、あなたに言う。起きなさい。」と言 われた。すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。ひたすらイエスとイエスの力を信 じよ。イエスは人間を越えた大いなるわざをなされる。」
*****ことばの光******* 2月12日
聞こえず口もきけない人のいやし
そして、天を仰いでき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
マルコ 7:34(聖書協会共同訳))
異邦人の地ツロ・シドンでの宣教の後、ガリラヤの地にイエスと弟子たちが来た時、人々は耳が聞こえないだけでなく、口もきけない人を連れてイエスのもとに来て、彼の上に手を置いてくださいと懇願した。イエスはその人だけを群集の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。そして、天を仰いで呻き、「エッファタ」と言われた。「エッファタ」はイエスや当時の人々が話していたアラム語で「開け」という意味である。 「開け」と言う前にイエスは呻いた。
これはサタンを頭とし支配下の悪霊どもの悪しき闇の力によってこの人が今に至るまで苦しみ呻き束縛の中にいたことへの共感の表明だけでなく神の被造物である人の本来あるべき姿を切に求めるが故の呻きである。それで本来あるべき姿に耳、口が開かれるように「エッファタ」「開け」と言われたのである。すると、すぐに彼の耳が開き、口のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。神であるイエスの権威あることばにより神のわざがなされた。
キリスト者の地上での生活は御国における栄光ある生活に比べれば悪しき力の束縛がまだある故に呻かざるをえないが時経れば栄光の生活が備えられている。
*****ことばの光******* 2月5日
御心を求める祈り
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまづいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言った。
マルコ 1:40(新共同訳)
重い皮膚病に患っている人がイエスのもとに来た。重い皮膚病は新改訳2017ではツァラアトと新改訳2017以前の新改訳ではらい病と訳されている。この人はイエスのもとにひざまずいてイエスに願った。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」 イエスに病をいやしてもらうことは強く願ってはいたがどうしても自分の願いがかなえられたいという思いをいったん横において、これからの自分の行末を目の前におられるイエスにゆだねイエスが自分をいやすことが御心と思うなら自分はいやされ、御心でないと思うならいやされなくてもそのことを受け入れようという心でイエスの前にひざまづいたのであった。イエスはこの人の御心を求め御心に従う姿勢を知り、あなたをいやすことは御心だとして彼の病をいやした。。
この人がどのようにしてイエスに喜ばれる御心を求める祈りに達するようになったのかの詳細はわからないが、病に中で祈るうちにまたイエスがどのような方であるかを知るようになって祈るうちにたどりついたのではないか。聖書を通してみこころを知り、日々の祈りの中で御心を求めて祈ろう。
****ことばの光******1月29日
今日も明日も進んで行かねばならない。
しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。
ルカ 13:33
イエスが伝道のため、ガリラヤとペレアの領主ヘロデ・アンテパスの領地内にいた時、パリサイ人たちがイエスのところに来て「ヘロデ王がイエスを殺そうとしているからここを去るように」と言った。イエスは彼らのことばに従わなかった。権力者ヘロデ王を恐れて去ろうとしたのではなく、ヘロデ王の領地内に三日留まってなすべき伝道の業をなしそのあとは今日も、明日も次の日もエルサレムめざして進んでいかなければならないと語られた。イエスの目がエルサレムに向けられていたのは、父なる神に示されたみこころ、エルサレムで人々の罪を贖う為に十字架で死ななければならないからであった。
イエスはご自分の生涯において十字架の死による贖いという明確な使命を持って歩まれた。その使命は父なる神から示されその使命を果たすためにもたえず父なる神、聖霊との交わりを持った。それは祈りを通しての交わりであった。「さて、イエスは朝早くまだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1:35)
私たちも明確な使命を神によって示され、使命を全うする力である神との祈りにより今日も明日も歩もう。
*****ことばの光******1月22日
汝の子は生くるなり
イエス言ひ給ふ「かへれ、汝の子は生くるなり」
ヨハネ 4:50 文語訳
イエス・キリストは伝道のためガリラヤのカナに行かれた。イエス・キリストがカナにおられることを聞いた王室の役人はカペナウムから急いでカナまでかけつけた。自分の息子が死にかかっていたからである。王室の役人はイエス・キリストを見い出すと「下ってきて息子をいやしてください。」とイエス・キリストに願った。イエス・キリストは王室の役人をためすように「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」と王室の役人に言われた。王室の役人は息子のことを案じて「主よ、どうか子どもが死なないうちに下ってきてください。」とイエス・キリストに願った。王室の役人の子を思う心を察したイエス・キリストは「かへれ、汝の子は生くるなり」と語られた。イエス・キリストのそのことばを王室の役人は信じて帰って行った。王室の役人が帰る途上、王室の役人のしもべたちが彼を迎えにきて、彼の息子が治ったことを彼に告げた。彼の息子が治った時刻を王室の役人がしもべたちに尋ねると、その時刻はイエス・キリストが「汝の子は生くるなり」と言われた時刻だった。イエス・キリストはイエス・キリストのことばを信じるものに神のわざをあらわされる方である。
*****ことばの光******1月15日
人は何によって生きるか
イエスは答えられた。「『人はパンだけて生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。』と書いてある。」
マタイ4:4
荒野で40日、40夜、断食をした後イエスキリストは激しさ空腹を覚えられた。そんな時サタンは近づき「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」とイエスに語りかけた。サタンはイエス・キリストが石をパンにすることができることはわかった上で神のみこころを求めずして自分のことばに従うことをねらっていた。このサタンの誘惑に対してイエス・キリストはそれを拒否し神のかたちに造られた人は神のみこころを求めみこころに従って生きることが人のとるべき生き方だとしてイスラエルの民が荒野の経験を経て神から示された生き方である申命記8:3のみことば「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。」を引用したのであった。
神のみこころは神の語ることばに示されている。人が神の語られたことばに信頼して生きるなら神は人を真実をもって守りサタンの誘惑を退けて神のみこころ道を歩むことができる。みことばをたえず開き、読み、みことばを心に留めみことばに信頼して歩もう。
*******ことばの光*******1月8日
神を求めて生きたヨシヤ王
彼の治世の第八年、まだ若いころに、彼は父祖ダビデの神を求めることを始め、第十二年にユダとエルサレムをきよめて、高き所、アシュラ像、刻んだ像、および偶像を除き始めた。 歴代誌 Ⅱ 34:3
ユダのアモン王は22才で2年間ユダを治めたがその間、偶像を拝み主の目に悪を行なった。また部下に対しても悪を行なったので部下たちの謀反により殺害されてしまった。アモン王に代わってユダの王となったのは、その子ヨシヤで父にはならわず16才の時より神を求め神を信じて神のみこころの道を歩み始めた。そしてまことの神でない偶像を取り除きエルサレムだけでなくアッシリアの支配下にあった北イスラエルにある偶像までも取り除いた。ヨシヤ王が王となる前にユダの王たちが偶像を拝んだためエルサレム神殿は閉ざされ荒廃したのでヨシヤ王は神殿の修理を始めた。その過程で神殿の中で祭司ヒルキヤが律法の書を発見し書記シャファンは律法の書を王の前で朗読した。神のことばを聞いたヨシヤ王は、自分の衣を裂き、神の前に自らの罪とユダの民の罪を悲しみ神のあわれみを求めた。
さらに見つかった律法の書について主のみこころを求め女預言者フルダを通して主のみこころが示された。みことばを聞いて心へりくだる者の祈りは聞き入れられることが主のみこころであった。
****ことばの光*******1月1日
すべてを豊かに供給してくださる神
あなたは地を訪れ水を注ぎこれを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。 詩篇 65:9
新たな年が始まった。この年はどのような年となっていくのだろうか。人間の思いは悲観的な思いに傾きやすいが、私たち信仰者は自分であれこれ考えるのではなく神のみこころを求め神にゆだねて新しい年歩もうではないか。
詩篇65篇の作者であるダビデは神が人間を越えてあらゆるものを豊かに供給する方であることを記しています。「あなたは地を訪れ水を注ぎこれを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。(詩篇65:9)
水の源である神の川は水で満ちているとダビデは述べていますが、神の川は、限界を知らず無尽蔵でそこからあらゆる地にあらゆる生物に供給されてとぎれることがありません。
この年私たちは疲れを覚え希望を失いかけるような困難に直面することもあるかもしれませんが、そのような時「神の川は水で満ちていること」を思い起こし必要なものを豊かに供給して下さる神に求めましょう。神は求める者に豊かに与えてくださいます。
*****ことばの光******* 12月25日
神の御計画による御子の誕生
時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にあるものを贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。 ガラテヤ 4:4,5
神はすべてのことを計画され確かな目的を持って行なわれます。神が心にかけ人間のためになさったことは、御子を人間が住む世に遣わされたことでした。神の栄光の姿で御子を世に遣わされたのではなく律法の下で罪に苦しむ人間をそこから贖い出すために、女から生まれた者、律法の下にいる者としてこの世に生まれさせたのです。神が遣わされたイエス・キリストはナザレの町のヨセフとマリヤの子として育ち、神のことばである聖書(旧約聖書)を学び、父ヨセフの大工の仕事を手伝い30才まで律法の下にいる人間として生活しました。
御自身は罪を犯さなかったが律法の下にいる人間たちが罪に苦しむ姿を見聞きして、神に示されてナザレの家を出て神のみことばを人々に語り、時至って十字架について罪を贖う身代わりの死を遂げられ三日目によみがえりました。神の計画なさった人間を罪から贖い出す(救い出す)目的はなしとげられたのです。
*****ことばの光******12月18日
救い主の道を備える者
幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。
ルカ 1:76、77
祭司ザカリヤと妻エリサベツは神の前に正しい人であったが年老いて子がいなかった。祭司ザカリヤが神殿で奉仕をしている時、主の使いが現われ「妻エリサベツは男の子を産み、その名をヨハネとつけなさい。」と告げられた。年老いていることを理由に御使いが告げた神のことばを信じなかったザカリヤは口がきけなくなった。御使いが告げたとおりしばらくして妻エリサベツは身ごもり男の子を産んだ。子供誕生の知らせを聞いた人々は幼子に割礼を施すためにやって来て、子の名をザカリヤと名づけようとした。妻エリサベツが子の名はヨハネと語ったので人々は口が聞けないザカリヤに身振りで尋ねると、ザカリヤは書き板に「その子の名はヨハネ」と記した。するとただちにザカリヤの口が開かれ神をほめたたえ神がなぜザカリヤ夫妻に子を与えられたかを預言した。
ザカリヤ夫妻の子ヨハネは後にバプテスマのヨハネと呼ばれるが彼は神の深いあわれみによって救い主イエス・キリストの道を備える為に生まれたのであった。
******ことばの光*****12月11日
救い主を待ち望んだシメオン
主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいま
す。私の目があなたの御救いを見たからです。
ルカ 2:29、30
エルサレムにシメオンという神を恐れる敬虔な人がいた。彼が日々祈りつつ待ち望ん
でいたのはイスラエルの多くの敬虔な人々が待ち望んできたメシヤ(救い主)であった。
イスラエルの歴史の中でダビデ、ヒゼキヤ、ヨシュアなどの神を恐れる王が出現して民
を治めて民にも神の祝福がもたらされたが不完全な面もあった。シメオンが待ち望んだ
のは神が遣わし人民のひとりひとりの心を真の平安に満たしてくださる救い主であった。
彼が日々祈りつつ熱心に救い主を待ち望んでいると聖霊が「主のキリスト(救い主)を
見るまでは決して死ぬことはない」と彼に告げられた。
聖霊が告げられたことが実現する日が来た。彼は聖霊に導かれて宮に入ると幼子イ
エスを主に献げるために宮に来た両親と幼子イエスに出会った。救い主を待ち望んでき
たシメオンは幼子がすぐに救い主であることがわかり、幼子を腕に抱き神をほめたたえ
た。主なる神は心を尽くしてひたすら求め待ち望む者に豊かに求めるものを与えてくだ
さる。アドベント(待降節)のこのとき自らに問うてみよう。「私は今何をひたすら主に求
めているのか」
****ことばの光*******12月4日
救い主を求めたサマリヤの女
来て見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。 ヨハネ 4:29
サマリヤに昼間の暑い時間に井戸に水をくみにくる女がいた。多くの人は朝日が照らない前に水をくみにくるのだが、彼女には夜仕事をしている事情があった。昼彼女が水をくみにきて水をくんでいる時にちょうどイエス・キリストが来て、彼女に「わたしに水を飲ませてください、」と語りかけられた。当時ユダヤ人とサマリヤ人とはつき合いはなく、まして男性から見知らぬ女性への語りかけはなかった。イエス・キリストは当時の慣習を無視してでも彼女に話しかける必要があった。彼女が救い主を求めていることを察知しておられたからである。しばらく彼女と会話をしたイエス・キリストは「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と彼女の個人生活に切りこみ、彼女の今までの五人の男性との生活を指摘した。自分の過去の生活を詳細に知っていたイエス・キリストに驚いた彼女は自分が求めていた救い主はこの方ではないかと思ったが、イエス・キリストが「あなたと話している私が救い主です。」と語られたので、イエス・キリストを救い主と確信して町の人々に自分は救い主に会ったことを話した。町の人々もイエス・キリストのもとに来て、イエス・キリストの話を聞いてイエス・キリストを救い主と信じた。
****ことばの光******11月27日
ダビデの子イエス、我をあわれみたまへ
ナザレのイエスなりと聞き、叫び出し言ふ「ダビデの子イエスよ、我をあわれみたまへ」 マルコ 10:47
エリコでの伝道のわざを終え、イエスと弟子たちがエリコから出た時、道ばたに盲人のこじきでバルテマイという者がすわっていた。群集のある者が「ナザレのイエスだ。」と叫ぶのを聞いたバルテマイは突然「ダビデの子イエスさま。私をあわれんでください。」と叫びだした。バルテマイが大声で叫ぶのを聞いた弟子たちや大ぜいの者たちが叫ぶのを制止しおうとバルテマイをたしなめた。その圧力に屈せずバルテマイはさらにますます大声で叫び続けた。ナザレのイエスさまは苦しむ者や病める者をあわれみいやされる方だと聞いていたバルテマイは、そのイエス様が今自分の近くにいるならこの機会をのがしてはならないとして必死に叫び続けた。彼の真剣で熱烈な求めを聞いたイエス・キリストは立ち止まり彼を自分のもとに叫んで来るように弟子たちに語られた。
イエスのもとへ行ったバルテマイに イエス・キリストは「何をしてほしいのか」と聞かれバルテマイは「目が見えるようになることです。」と答えた。イエス・キリストは「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言ったすぐ後でバルテマイの目は見えるようになりイエスの行かれるところについて行った。「主の御名を叫び求める者は、だれでも救われる」(ローマ 10:13)
******ことばの光******11月20日
黙れ、静まれ
イエスは起き上って風を𠮟りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。 マルコ 4:39
ガリラヤ湖のほとりで群集に神のみことばを語ったイエス・キリストは、夕方弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と声をかけたので弟子たちは舟にイエスを乗せて向こう岸に向かった。向こう岸のゲラサ人の地での伝道と向こう岸に渡る途上で弟子たちの信仰の訓練をすることが向こう岸に渡るイエス・キリストの目的であった。進み出した舟はほどなく激しい突風により波が舟の中に入りあわや沈みそうになった。恐れに満たされた弟子たちは眠っていたイエス・キリストを起こし助けを求めた。
イエス・キリストは起き上がり風を𠮟りつけ湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。イエス・キリストの口から発せられたことばの権威。そのことばは猛威をふるう自然界の風、波をも静まらせた。神がことばを発せられると被造物は力を失い神の下に服するのである。創世記冒頭の神のことば、「光、あれ。」すると光があった。(創世記1:3)が思い起こされる。
信仰者のうちにたち現われる神から引き離そうとするサタンの誘惑に対して「黙れ。静まれ」とのイエス・キリストのことばをもって追い払おうではないか。
*******ことばの光******11月13日
ヒゼキヤ王がイスラエルに呼びかけたこと
イスラエルの子らよ、アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち返りなさい。そうすれば、主は、アッシリアの王たちの手を逃れて残ったあなたがたのところに帰ってくださいます。 歴代誌 Ⅱ 30:6
偶像礼拝をして悪名高かった父アハズの死後、ユダの王となったヒゼキヤ王がまずしたことは閉められて使用していなかったエルサレムの神殿を開け聖別し祭司レビ人たちもその身を聖別して神殿において主なる神を礼拝することを行なった。次にダビデ、ソロモン王以降久しく行なっていなかったイスラエルの民にとって重要な過越の祭を行なうことを神に導かれて決定した。当時イスラエルは南のユダと北のイスラエルに分かれていた。北イスラエルはBC722年アッシリヤによって侵略され多くの民はアッシリヤに強制的に連れて行かれ、また多くのアッシリヤ人が北イスラエルに来て居住した。このような時ヒゼキヤ王は今分かれていても元は同じ民族であるので、アッシリヤの支配下にあるイスラエルの人々にも手紙を通してエルサレムに来て共に過越の祭を祝おうではないかと呼びかけた。呼びかけの文の冒頭に「主に立ち返りなさい」と記した。ヒゼキヤ王は偶像礼拝の罪を悔い改め主を新たに信じることがすべての行動の基だと認識していたからである。ヒゼキヤ王の呼びかけに応じて北イスラエルからまた、ユダから多くの人がエルサレムに集った。過越の祭に集った人々に主よりの大いなる喜びと感謝があふれたのであった。
*******ことばの光****** 11月6日
まことのいのち
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
マタイの福音書 16:26
アメリカの大富豪ロックフェラは貧しい行商人の子として育ったが青年時代に貧しさから脱出して金持ちなる決心をして働き独立して実業家としての出発点に立ちました。三十代でオハイオ・スタンダード石油会社を設立、四十代には鉄道会社と企業合同し、合衆国精油能力の90%以上を支配し大金持ちとなりました。彼のモットーは「自分のため、金のため」でした。多くもうけるために雇い人や商売相手に対して情け容赦もなく接しました。金は多く手に入りましたが、彼を愛し尊敬する人はほとんどいませんでした。五十才をすぎた時、極度のノイローゼとなり夜も眠ることができず苦しみました。この時彼は自分だけ、金だけの道が滅びの道であることに気づき神の前に自分のなしてきたことを悔い改めイエス・キリストを救い主として信じました。彼の心に喜びと生きがいが生じ、今まで与えられた富を神と人のために用いるようにしました。彼は「自分のため、金のため」の生き方をやめイエス・キリストを救い主として信じて歩んだ時「まことのいのち」を手に入れたのです。
*******ことばの光******10月30日
主イエス・キリスト全世界の人々の弟子化の命令とインマヌエルの約束
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
マタイの福音書 28:19,20
復活したイエス・キリストは、十一人の弟子たちが今後何をするのかを明確に神の権威をもって命じられた。弟子たちが人々を待って福音を教えるのではなく、全世界へ出て行ってイエス・キリストの福音を伝えイエス・キリストを救い主と信じたものたちをイエス・キリストの弟子とせよとの命令であった。イエス・キリストの弟子とせよと強調したのはイエス・キリストを信じたことを満足している信仰者ではなく生涯イエス・キリストから学びどのような苦難、試練に会っても最後までイエス・キリストに従い続ける者が弟子であるからである。イエス・キリストは弟子たちにイエス・キリストを信じた者には父、子、聖霊の名によるバプテスマを授け、みことばを守っていくように教えるように具体的な指示もした。イエス・キリストは全世界の人々の弟子化を命じただけでなく、宣教、弟子化の働きをする弟子たちと世の終わりまでともにいて導いてくださるとのインマヌエルの約束までしてくださった。すべての教会の宣教目標は自国、自分の地域にとどまらず全世界であることを覚え、宣教、弟子化の働きを進めよう。
*******ことばの光********10月23日
イエスの十字架を背負わされたシモン
彼らはイエス・キリストを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。
ルカの福音書 23;26
クレネ人のシモンがエルサレムに出てきたのは過越の祭をエルサレム神殿で祝うためであったが神殿での過越の祭の儀式を終えて通りに出てくると、イエス・キリストに十字架を負わせてゴルゴダの丘に先導しているローマ兵たちはイエス・キリストがよろよろと倒れそうな様子で歩いている様子を見て、いきなりイエス・キリストが背負っていた十字架を取りあげてシモンにその十字架を背負わせて歩かせた。強圧的にそうさせたので抵抗する間もなかった。ゴルゴダの丘まで十字架を背負っていったがそこで十字架を取りあげられ、イエス・キリストが十字架の上にはりつけにされ十字架はイエス・キリストとともにゴルゴダの丘に立てあげられた。十字架が立てあげられてから六時間のローマ兵士とイエス・キリストとの会話、群衆たちのあざけりの声、死のまぎわに発したイエス・キリストのことば等をシモンはじっと見聞きしていた。
シモンは、この後キリスト者になったと言われている。ローマ教会の信者としてパウロがシモンの息子ルフォス、シモンの妻のことを言及している(ローマ16:13)のはシモンがキリスト者になった有力な証しである。
******ことばの光******** 10月16日
二人の生き方
ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持ってみもとにやって来た。そして食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
マタイの福音書 26;7
ベタニヤのシモンの家にイエス・キリストがおられた時、ひとりの女が非常に高価な香油の入った壺を持ってイエス・キリストのおられるシモンの家に来て食卓に着いておられたイエス・キリストの頭に香油を注いだ。弟子たちはこの女の行為をよく思わずこの香油を売ったなら高く売れ貧しい人たちに施しができたのにと言った。イエス・キリストは十字架でのご自分の死を察知しておられたので、この女の行為をほめ、「この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。」と語られた。
この出来事の後イスカリオテのユダは祭司長たちのところに行ってイエス・キリストをあなたがたに引き渡すなら、何をくれますかと尋ねた。彼らはイスカリオテのユダに銀貨三十枚を支払った。香油をイエスの頭に注いだ女はイエス・キリストから受けた愛に感謝して自らの持てる最高のものをイエスに与えた。イスカリオテのユダはイエス・キリストから受けた愛に感謝せず裏切り金貨三十枚を受け取った。まさに与える(give)人と受け取る(take)の生き方が示されている。
********ことばの光*******10月9日
主より与えられたものを活用せよ
五タラント預った者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。 マタイの福音書 25;16
イエス・キリストはマタイの福音書25章で主人がしもべに財産を与えて旅に出、財産を預かったしもべたちが財産をどのように活用したかを旅から帰ってきてしもべたちから報告を受ける話を語られた。五タラント預かった者は五タラントを活用して五タラントもうけた。ニタラント預かった者は二タラントを活用して二タラントもうけた。ところが一タラント預かった者は活用して損したら主人に叱られると思って一タラントを地の中に隠しておいた。それぞれの報告を聞いた主人は与えられたものを活用してもうけた五タラント、ニタラント預かった二人の者をほめ、さらにたくさんの物を任せようと言った。ところが預かった一タラントを地に隠した者を叱りその一タラントを五タラント預かった者に与えなさいと語られた。
私たちは主なる神より遣わされてそれぞれ異なった賜物、才能を与えられている。だから他の人に多く賜物が与えられているからといってうらやむことなく自分に与えられた賜物を神の栄光と人の益のために十分に活用することに努めようではないか。ちなみに英語のtalent(才能、才能のある人の意味)はイエス・キリストがマタイ25章で語った話から由来している。
*******ことばの光*******10月 2日
罪の解決の道
内側から、すなわち人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。
マルコの福音書 7;21~23
神より遣わされて人の救い主としてこの世に来たイエス・キリストは、世のどの思想家にまさってするどく人の心の内にある悪しき思いすなわち聖書が示す罪を指摘した。(マルコの福音書 7;21~23)イエス・キリストが指摘した罪の実体について自分にはそのような悪しき思いはないと断言できる人は誰もいない。神が造られた最初の人アダムが神に背いたので、子孫である私たち人間は生まれた時より罪をもって歩んできたのである。聖書は罪をもったままなら神のさばきを受けなければならないと語る。
罪ある人間が神のさばきを受けない道はあるのだろうか。罪をもつ人間の行末をあわれんだ神は罪の解決の道として御自分のひとり子イエス・キリストを人間の罪の身代わりとして十字架につけた。罪のないイエス・キリストの身代わりの死により自らの罪を認め悔い改めイエス・キリストを罪よりの救い主として信じる者に罪のゆるしを与え神のさばきを免れる道を与えた。人間では考えられない神の知恵、奇蹟である。
*******ことばの光*******9月 25日
神の前に自らを整えたヨタム王
ヨタムは勢力を増し加えた、彼が、自分の神の前に、自分の道を確かなものとしたからである。 歴代誌第二 27:6
ユダの王ヨタムは父ウジヤ王の死後ユダの王となり十六年間ユダを治めた。幼少から父の背中を見ていたヨナムは父の良きわざは継承してさらに発展させた。ヨタムは父のなした農業と防衛の強化を継承しただけでなくユダの山地を開拓してそこに町々を建てた。
ヨタムが父ウジヤにならわなかったのは、神によりユダが繫栄した後の生き方であった。父ウジヤは神が繁栄させてくれたことを忘れ高慢になり神の律法に従わなかった。父の失敗を目のあたりにしたヨタムはユダの国の繁栄後、神の前に静まり自らを点検し神の前に自らを整えることをした。新改訳聖書では、「彼が、自分の神、主の前に自分の道を確かなものとしたからである。」(歴代誌第二26:6)と訳しているが「確かなものとした」と訳したヘブル語は「用意した」とか「整えた」という意味もある。文脈から考えると旧約聖書翻訳委員訳「彼は彼の神ヤーウェの前で自分の道を整えながら生きたからである。」がふさわしいと思われる。ヨタムの信仰生活は完全無欠ではなく罪が示されると悔い改め神のみこころの道に自分を修正(整える)歩みであった。
******ことばの光********9月18日
目を上げよ。主に向かって
私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれんでくださるまで。
詩篇 123篇2節
エルサレム神殿の重要な祭に参加するために家を出た巡礼者の旅は困難が伴いました。強盗におそわれたり、エルサレム神殿の重要な祭に価値をおかない者たちから時と金と労力を貴して神殿の祭に参加したら何が得られるのか。祭に参加しなくても神に祈ったら相当なものが得られるのではないかと嘲りのことばをかけられ気がめいったのでしたが、巡礼者たちは旅は止めることなく天の御座に着いておられる主に目を上げるのでした。
主に目を上げ主に向かって祈り続けました。主が巡礼者をあわれんでくださるまで祈り続けた時、天よりのあわれみが主によって注がれ巡礼者たちは主よりの恵みと力をいただき、力強くエルサレムに向かって歩きだし、ついにエルサレムに到着し神殿での重要な祭に参加できました。各地から集ってきた巡礼者たちと主にあって一つとなり高らかに主に感謝の讃美と祈りをささげることができました。困難の旅を経て主にあって一つとなってささげた祭での礼拝は何ものにも代えがたい貴重な経験でした。主は困難な状況にあっても主に目を上げ主に向かって祈り求めるものに豊かな祝福を注いでくださるのです。
*******ことばの光*******9月11日
人生の転換点
しかし、彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身を滅びに招いた。彼は自分の神、主の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして神殿に入った。
歴代誌 第二 26:16
ユダの王ウジヤは父アマツヤの死後16才で王となった。彼は神を恐れ神に忠実に歩む良き指導者ゼカリヤに導かれて神を求め神の道を歩んだ。神は神を恐れ神を神を求めるウジヤを祝福したので彼が王位についてから他国との戦いにおいても勝利し、また民の命の糧を生産する農業にも力を注いだのでユダの民は飢えることなく豊かな生活をすることができた。神を恐れ神を求めて歩むウジヤ王の名声は遠方の国々にまで広まった。
歴代誌の作者は彼の名声が遠方の国々にまで広がった原因についてこう記した。「彼が驚くべき助けを得て、強くなったからである。」(歴代誌 第二 26:15)
驚くべき助けとは神の助けである。ところが彼の名声が遠方の国々にまで広がった後、彼の心は高ぶり神を恐れず神を求めず自らの力を過信して行動するようになり祭司以外入ってはいけない神殿に入り、祭司以外許されない香をたこうとした。祭司に止められると激しく怒りなおも香をたこうとした。ウジヤは主に打たれて重い皮膚病となり死に至るまで隔離されて過ごし、死後も王の墓には葬られなかった。彼の生涯は信仰者に対する警告として示されている。
********ことばの光******9月4日
父の愛と放蕩息子の帰還
こうして彼は立ち上って、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き口づけした。
ルカの福音書 15:20
息子が父の家を出て行ったのは、今まで経験したことのない未知の地での冒険と自由を求めたからであった。その為に父の死後にもらうはずの財産を要求して手に入れ再び家に帰るつもりはない覚悟で家を出て遠い国へ旅立った。遠い国の都会で金を使って手に入れたものは快楽の充足だけだった。息子は快楽の充足を手に入れた代わりに財産のすべてを失い、食べるものがない中で豚飼いとところで豚の世話をすることになったが豚飼いは豚に食べさせるいなご豆さえも彼に与えなかった。この時彼は父の家を思い起こし父の家に帰る決心をした。自らの思いをとげる為に父に対してなした罪をわびて。父は息子が家を出て行ってから一日たりとも息子のことを思わぬ日はなく息子が帰る日を待ちわびていた。父が家の外に出て遠くを見た時息子がもどってくるのではないか。父は駆け寄って彼の首を抱き息子に口づけして彼を迎え入れた。
これはイエス・キリストが語った父の家を出て行った息子の話だが、神から離れ反逆して歩む罪人なる我々人間が神の愛にきずいて罪を悔い改めて神に立ち返るならば神は豊かなゆるしをもって私たちを迎え入れ新しい人生に導いてくださることを示している。
********ことばの光*****8月28日
私のなす行為は神の栄光を現わすことになるか。
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』
とも書いてある。」 マタイ4:7
サタンの誘惑の第二でサタンはイエスを都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。」と言った。しかし詩篇91篇11~12節のみことば『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』とも書いてある。」を引用して神殿の上より身を投げても神が守ってくださるからとしてイエスに身を投げるように求めた。
このサタンの挑戦にイエスは応じなかった。イエスにとってあらゆる行為をなす前に常に考えるべきことは自らがなす行為によってそのことが神の栄光をあらわすことになるかということであった。神殿から身を投げて奇跡的に助かったとしても神の栄光が現われたり、何か人の助けとなるようなことはないのである。それ故サタンの求めに応じるのは申命記6章16節「あなたの神である主を試みてはならない。」のみことばに反することときっぱりとサタンの求めを退けたのである。
私たちの信仰者も小さいことであれ大きいことであれ行為をなす前にこれをすることは神の栄光を現わすことになることだろうかとまず考えよう。
********ことばの光******8月21日
背信の子らよ。帰れ。
背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。
エレミヤ書 3:22
預言者エレミヤは神に捕らわれた預言者でありました。預言者として神のことばを語る中でそのことばが自分たちにとって都合が悪い王、ユダ、イスラエルの民から迫害され苦難の道を歩くこともありましたが預言者として生き預言者の使命を全うしました。エレミヤが生涯を貫いて語ったメッセージは「神に帰れ。」でした。エレミヤが神のことばを語った時、ユダ、イスラエルの民はまことの神ヤーウェを捨て異国の神バアル、アシュラの神を拝んでいました。エレミヤにとって生命の源なる神ヤーウェを捨て異国の神バアル・アシュラの神を拝むことは神の民ユダ、イスラエルにとって神が最も嫌う背信の行為でした。エレミヤは人々の顔を恐れず神がエレミヤに示した「神に帰れ。」のメッセージを語り続けたのです。神に帰るとは、偶像の神を拝む罪を認め、おわびし、心をまことの神ヤーウェに向けて歩むことです。心より神に帰る者に対して神は背信をいやしてくださると約束し実際に背信の罪をゆるし神よりの平安、祝福をもって導いてくださるのです。イエス・キリストは「放とう息子」のたとえの中で放とう息子が罪を悔い改めて父(神)のもとに帰った時、父(神)は放とう息子をゆるし豊かな祝福をもって迎えてくれたことを語られました。
*********ことばの光******8月14日
黙って神を待ち望め
私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。 詩篇62:1
誰の人生にも自らの力また人間の知恵、力では解決できないような問題、試練がおそいかかってくる。そんな時どうしたらよいのだろうか。詩篇62篇の作者ダビデの人生において息子アブシャロムによって王宮を追われ少数のつき人たちと逃げた時は万事休すと思ったにちがいない。しかし人の力が尽きたと思える時こそ神が働いてくださる。ダビデはひとり神の前に出て神に置かれている状況を打ち明け人知を越えた神に祈りこれからの人生をゆだねた。この神との対話、祈り、待ち望みの後アブシャロムは失脚し神により再びダビデは王座に返り咲いた。
詩篇62篇はダビデが人に相談せず、ただ神を待ち望んだ後、神が危機的状況にあったダビデを引き上げ救い出してくれた経験を基にして作られたものと思われる。1節の黙って神を待ち望むとは、声を出さずに神を待ち望むことだけでなく、人間に相談せず最も頼りがいのある全能者により頼んで神を待ち望むことである。神に信頼して祈り待ち望んで、救いを体験したダビデは、「私の救いは神から来る。」と断言した。神に信頼して待ち望み祈る者には救いと勝利と祝福が伴ってくるのである。
******ことばの光********8月7日
使命ある人生への招き
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 マタイの福音書4章19節
ナザレの家でヨセフ・マリヤによって育てられ成人してから大工の仕事をして家を支えていたイエス・キリストは30才の時、父なる神によってナザレの家を出て世の人々のために神よりの福音を伝えるように示されると即座に父なる神に従ってナザレの家を出て悪魔の誘惑に勝利した後、イスラエルの民に対して神の福音を宣べ伝える宣教の業を開始した。
イエス・キリストがまず宣教の業を始めた地はガリラヤであった。ガリラヤ湖のほとりでペテロとアンデレが湖で網を打っているのをご覧になったイエス・キリストは彼らに声をかけられた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 イエスの声は天来の声であったが力強く神よりの権威があった。神が呼び、今従事している漁師の業ではなく人間を救い出す漁師という新しい使命への招きであった。人間の打算ではなく神に導かれて二人は自分達を召して下さった神であるイエス・キリストに使っていた網を捨てイエスの招きの声に従った。神であり救い主イエス・キリストに従う人生こそ最も幸いな人生である。
******ことばの光******7月31日
得意の時こそ心せ
アマツヤがエドム人を討って帰って来た後のこと、彼はセイル人の神々を持って来て、それらを自分の神々として立てた。彼はその前で伏し拝み、犠牲を供えていた。
歴代誌第二 25:14
つユダの王アマツヤはユダをおびやかす強敵エドムと戦って勝利する為イスラエルに呼びかけ銀百タラントを払って十万の兵士を集めてユダとイスラエル合同軍によってエドムを打ち負かそうとした。神は預言者をアマツヤのもとに遣わして「偶像を拝むイスラエル兵とは神はともにおられないからイスラエル兵を除きなさい。ユダだけで戦うなら神はともにいて助ける。」と語られた。アマツヤは預言者のことばを信じてすでに金を払ったイスラエル兵を除いてエドムとの戦いにおもむき戦いに勝利した。神に栄光を帰して神をほめたたえるべきだったのにアマツヤは何を勘違いしたのか自らの力の故に勝利したと高慢になったばかりかエドム人が拝んでいた偶像の神を礼拝するようになり生涯の終わりも部下に殺害され悲劇の終止符を打った。あつあつ信仰者は目に見えるかたちでの成功にとらわれずたえず主なる神に対して二心ではなく心からの真実をもって仕えなければならない。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。
******ことばの光******7月24日
満ち満ちた豊かな方より受ける恵み
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
ヨハネ 1:16
ヨハネの福音書を記した弟子のヨハネはイエス・キリストに召されて十二弟子の一人となり身近にイエス・キリストと過ごす中でイエス・キリストから受けた恵みが時にかなって必要に応じて数えきれないほどであったことを思い起こして感動をもってこう証言した。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から恵みの上にさらに恵みを受けた。」(ヨハネ1:16)
強いときには強いときの恵みを、弱いときには弱いときの恵みを、病める時には病める時の恵みを、悩める時には悩める魂に力を与え励ます恵みが与えられた。満ち満ちて豊かな方から恵みをとぎれることなく受けるにはどうしたらよいのだろうか。まずイエス・キリストに信仰によってしっかりつながり続けること。次に必要がおこるごとにイエス・キリストに祈り求めること。そうするならばヨハネが経験したようなイエス・キリストが与えて下さる恵みが私たちの上にも次から次へとぎれることなく与えられます。「あなたは地を訪れ、水を注ぎこれを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。(詩篇65:9)
******ことばの光*******7月17日
苦しみを通して与えられる恵み
苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。詩篇 119:71
詩篇119篇の作者は神のみことばを愛する人でした。彼が神のみことばをよりいっそう愛するようになったのには彼が苦しみ(苦難)に直面したからでした。「苦しみにあう前には、私は迷い出ていました。しかし今はあなたのみことばを守ります。」(詩篇119:67)
神を信じる者でしたが、みことばには信仰生活において重要な役割があることを深く認識していませんでした。みことばを真剣に求め心に留めることをしませんでした。その中で神を信じていながら自分の歩むべき道がわからず迷い出てしまったのです。そんな時、彼に苦しみがおそいかかりました。彼が真剣に神に祈り求めた時、神のみことばが光となって彼の行くべき道を示してくれました。彼は苦しみに打ち負けず立ち上がることができたのです。この経験を通して彼は力強く告白することができました。
「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)
世々の聖徒も苦難を通して神の恵みと神のみことばのすばらしさを知ったのです。
*******ことばの光*******7月10日
将来を主にゆだねよ
あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主がなしとげてくださる。
詩篇 37:5
詩篇 37 篇の作者ダビデは主によって導かれ、主のみこころのうちを歩みました。預 言者サムエルによって主がダビデをサウルの次にイスラエルの王に召していることを示 されて油を注がれた後、イスラエルの王となってから王の仕事は自分の力では全うでき ないことを認識していました。王としていかにすべきかと悩むとき主に祈り求めました。主が王のなすべきことを示され、示されたことを行ないました。周辺に外敵が多い為 イスラエルの将来に不安が生じました。不安の中で主に祈り求めた時、主がダビデに示 されたのは、将来は主の御手の中にあるので将来も主に全くゆだねよということでした。ダビデは自分の将来もイスラエルの将来もいっさい主にゆだねました。ダビデの不安、恐れは去り、主にある平安がダビデの心を満たしたのです。ダビデは 自らの経験を他の信仰者にも分かちたくて詩篇 37 篇を書き記したのです。私(三井)が伝道者の道を歩むよう主に示された時、どのように進んで行くべきか主 に祈り求めた時、詩篇 37 篇 5 節のみことばが与えられました。その後シンガポールの 神学校に行く道が開かれて進学、卒業でき今日牧師の道を歩ませていただいています。
********ことばの光*******7月3日
イエスに信仰の手を伸ばし女
彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。マルコ 5:27
女性特有の長血で12年間苦しんでいた女がいた。多くの医者にかかったが財産をつぎこんだのにもかかわらず、いっこうによくならなかった。生きる希望もないほどに落ちこんでいたが、そんな時イエスのことを聞いた。イエスは病める人をいやし、その語る神のことばは人に希望と生きる力を与えるということだった。そのことを聞いた彼女は今まで失うものが大きかっただけにイエスという方に自分の人生を信頼しまかせてみようという気になった。イエスに出会う時が近づいた。自分の住む町にイエスが来たという知らせを聞いた彼女は人々と共にイエスがおられる所に急いだ。人々があの方がイエスだと語った時には彼女はイエスの背後にいた。病める人をいやすことのできるイエスに信頼と期待をもって触れることができるならイエスは必ずいやしてくださると信じて彼女はその手を伸ばしてイエスの衣に触れた。
すると見よ。イエスから力が出て彼女はいやされた。12年の苦しみは消え、彼女は喜びイエスに自分の身におこったことを話した。イエスも喜び、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」と彼女に声をかけられた。
**********ことばの光********6月26日
最大の幸い
しかし私にとって神のみそばにいることが幸せです。私は神である主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げます。
詩篇 73:28
詩篇73篇の作者アサフは神殿礼拝において主を讃美する歌い手として奉仕していた。彼は信仰者として充実した日々を送っていた。ところがある時、主を信じず主に従わない悪人たちが主にさばかれることなく経済的に富み、主を信じる信仰者以上に人がうらやむほどの生活をしているのを見た時から彼の心は変わってしまった。彼らはなぜ主を信ぜず主に従わないのに栄ある生活をしているのだろうかという疑いにとりつかれ、彼らの生活と自分の生活を比べて自らがみじめに思えてきてしまった。そのような心で主を讃美する奉仕をしてもむなしさを覚えた。こんな心で聖なる奉仕を続けてはいけないとの思いから信仰の道から離れようとした。この時アサフは主にどうすべきか求めようとして誰もいない神殿に行き主のみこころを求めて祈った。アサフの祈りに対して主は彼ら(悪人)の最後を示された。彼らの最後を知った時、信仰者の幸いとは何であるかを知ることができた。天地万物の根源である主が信仰者と共にいて下さること(主の臨在)こそ信仰者にとって最大の幸いであることがわかってアサフは心から主を讃美することができた。
*********ことばの光*********6月19日
罪の誘惑に打ち勝つ道
私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。
詩篇 119:11
詩篇 119 篇の作者は心より主のみことばを愛し、みことばに従って生きた人でした。しかし、何の誘惑も困難もない歩みではなかったのです。若き時代性的な誘惑にも直 面しましたが誘惑に打ち勝つことができました。その経験を証ししました。「どのようにし て若い人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道 を守ることです。」(詩篇 119:9) 作者は誘惑に直面した時神のことばに示されて誘惑をしりぞけ罪を犯すことをしませ んでした。みことばに示されて誘惑をしりぞけたのですが、日々そのためになしていたこ とがありました。それは、日々みことばを読み聞き黙想して心に留め心に蓄えていたの です。みことばを心に蓄えているとは何度もみことばを思い口づさむうちに、しっかりと みことばを暗唱できるほどになったのです。このようなみことばが心に蓄えられていると、 困難や誘惑に直面した時、ふさわしいみことばが示され、光となって困難、誘惑に打ち 勝つことができるのです。主イエス・キリストはサタンの三度の誘惑に対していずれもみ ことばをサタンに示して勝利されました。
***********ことばの光**********6月12日
全能者の御手に守られたヨアシュ
王の娘エホシェバは、殺される王の子たちの中からアハズヤの子ヨアシュをこっそり連れ出し寝具をしまう小部屋にその子とその乳母を入れた。祭司エホヤダの妻でアハズヤの妹である。
歴代誌 II 22:11 .
偶像礼拝を民にも求め神の喜ばない道を歩んだユダの王ヨラムが死んだ後、ヨラムの子アハズヤがユダの王となった。アハズヤ王の後見役となったのは彼の母アタルヤでイスラエルの王アハブの娘で死んだヨラムの妻であった。アハズヤ王の後見役となったアタルヤは主の喜ぶ道ではなく、夫であるヨラムと同様偶像礼拝を推奨したのでアハズヤ王もまことの神を礼拝せず偶像礼拝の道を進んだ。悪しき助言者はわざわいである。
神はアハブの家とアハブの家に関係する者たちの偶像礼拝の罪をさばくためにイスラエルにエフーを王として立てイスラエルの王ヨラムとユダの王アハジヤをさばいたのでイスラエルの王ヨラムとユダの王アハジヤは死に至った。ユダの王アハジヤが死んだ後後見役であったアタルヤが王となったがユダの家に属する王の一族全員を滅ぼそうとした。しかし神はユダのアハジヤの妹であるエホシェバの手を用いてアハズヤの子ヨアシュを神殿の寝具をしまう小部屋に6年間隠した。
ダビデと神との契約の故にダビデの子孫を滅ぼさなかった・神が全能者の御手をもってヨアシュを守ったのであった。
*************ことばの光*********6月5日
弟子たちを嵐から救ったイエス・キリスト
イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
ヨハネ 6:20
イエス・キリストは五千人にパンを与えたみわざをなさった。人々がイエス・キリストを王にしようとした後、イエス・キリストは弟子たちや人々から離れてただ一人山に登り祈りをされた。山で祈っているイエス・キリストを持つべきだったのに弟子たちは伝道の根拠地のカペナウムめざしてガリラヤ湖畔で舟を出した。4,5キロ進んだところで突然嵐が出現した。夕方出発したこともあり暗闇の中で死の恐怖を覚えてうろたえていました。そんな折、暗闇の中でガリラヤ湖の周辺を歩いて弟子たちの側にくる人影がありました。イエス・キリストかなと覚えつつも幽霊かなとも思い恐怖がつのりました。人影は弟子たちに近づくと「わたしだ。恐れることはない。」と弟子たちに語りかけました。主イエス・キリストでした。弟子たちの恐怖は消え、喜びと平安が弟子たちを満たし弟子たちはイエス・キリストを舟に迎え入れました。荒れ狂っていた嵐は程無くなぎて舟は目的地のカペナウムの湖畔にたどりつきました。
私たちの人生の嵐においてもイエス・キリストが共にいてくださるなら、嵐から救い出され目的地に到着できるのである。
**************ことばの光********5月29日
民を主に立ち返らせたヨシャファテ王
ヨシャファテはエルサレムに住んでいたが、彼はもう一度ベエル・シェバからエフライムの山地に至る民の中に出て行き、彼らを父祖の神、主に立ち返らせた。
歴代誌 Ⅱ 19:4
ユダの王となったヨシャファテは、王としての模範をダビデとして偶像の神々に求めず主を求めた。そして王宮にとどまって人々に命令を下しただけでなく自らがベエル・シェバからエフライムの山地にいたるまで民の中に出て行って主の道を説き、ユダの民を主に立ち返らせた。リーダーたる王自らが直接語る時、民も王のことばを真剣に受けとめ、罪を悔い改めて主に立ち返ったのであった。主イエス・キリストは復活後弟子たちにこう語られた。「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:18~20)
ヨシャファテは、主を恐れ真実と全き心を持つ裁判官を任命して裁判においても主の善とあわれみが示されることを求めたのでユダの国には主の祝福と平和が存続した。
**************ことばの光*********5月22日
大軍に立ち向かったヨシャパテ王とユダの民
主はあなたがたにこう言われます。「この大軍のゆえに恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。」
歴代誌 Ⅱ 20:15
ユダの王ヨシャパの時代に、モアブ人、アンモン人、エドム人が連合した大軍がユダに攻めてきた。この時ヨシャパテ王は主を求めユダ全土に断食して祈るように呼びかけた。
ユダの民はエルサレムに集って断食して祈り、主の助けを求めた。ヨシャパテ王もユダの民も祈る中で主の霊がレビ人ヤハジエルに臨み、大軍のゆえに恐れず神が戦ってくださるから明日出陣せよとの神のことばを語った。神のことばを信じたヨシャパテ王は出陣の時、主を讃美する者たちを任命して兵士たちの前に位置させ「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」との讃美をさせ兵士たちは聖歌隊の後から進んで行った。聖歌隊が讃美して進んで行くと、神が見えざる御手をもって働かれた。主が設けられた伏兵が大軍の連合軍に奇襲をしかけたので大軍の連合軍はあわてふためき連合軍は打ち負かされた。主の働きによりユダの国は滅亡の危機から救い出された。
私たち信仰者には私たちの前に立ちはだかる大軍(困難、試練)に立ち向かい打ち勝つ力はないが、主により頼み、祈りと信仰と主への讃美によって進むならば主が打ち勝たせてくださる。
**************ことばの光*******5月15日
主への信仰の道を選択したルツ
お母様を捨て、別れて帰るように仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。 ルツ記1:16
イスラエルのベツレヘムからモアブの地に二人の息子と共に移住したナオミと夫エリメレクはモアブの地で苦難を経験した。ナオミは夫に先立たれた。深い悲しみの中でのなぐさめは二人の息子の成長であった。二人の息子はそれぞれモアブ人の嫁を迎えて結婚した。ナオミは主にあって喜び二人の息子の結婚を祝福した。しかし二人の息子にも先立たれてしまった。夫の死に続いての二人の息子の死はナオミに立ち上がることもできないほどの悲しみと苦痛をもたらした。夫と息子に先立たれたモアブの地を離れて故郷イスラエルのベツレヘムに帰る決心をしたナオミにすがりつきナオミと共にベツレヘムに行く堅い決意を示したのは二人の息子のうちのキルヨンの嫁のルツであった。ルツはナオミと共に暮らす中でナオミの信仰する神の恵みと力を知りモアブの偶像の神ではなくナオミの信じる神の信仰者となったのであった。
ナオミはルツに対してまことの神の証人となったのである。ベツレヘムに移り住んだナオミとルツはその地でボアブに出会いルツはボアズと結婚した。ルツとボアズの子オベデはダビデの祖父で主のくすしい摂理によりルツは救い主イエス・キリストへと続くダビデの家系に連なる者となった。
*************ことばの光********5月8日
イスラエル(神と戦う者)
ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
創世記32:24
兄エサウをだまして長男に与えられる祝福を奪ったヤコブは、エサウの怒りをまぬがれる為にパタン・アラムの親族のもとに行って住み、その地で結婚して財産を築き父イサクのもとに帰ろうとした。しかし父イサクの地に至るには兄エサウの所有している地を通らなければならなかった。エサウがいまだに怒っているなら仕返しをされるのではないかと恐れた。エサウに会う前にひとり祈りながら神と向き合う時をもった。この時の様を聖書は神と格闘したと記している。神を求め神の祝福、恐れの心ではなく神より与えられる平安を求めたヤコブは神によって神との格闘の代償として腰の筋に負傷を負った。
神は神を求めたヤコブがその結果、神により新しい存在となったとしてヤコブの名を「イスラエル」とするように命じた。
イスラエルとは「神と戦う者」という意味だが、神を求める者ともいえる。聖書において真剣に神を求める者に対して神は豊かな祝福を与える方であることがアブラハム、モーセ、エレミヤ、パウロなどの信仰者の例で示されている。神を求めたヤコブが腰の筋を負傷したが、神を求める者は、たとえ求める過程で犠牲を払い、苦難を受けてもそれらを甘受しなければならない。
**************ことばの光********5月1日
重荷を負ふ者、われに来れ
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 マタイ11:28
この世に生まれ出てきて生きる者は、誰でも重荷を負って生きています。その重荷は人間関係の重荷です。家庭で学校、職場で人間関係に悩まなかった人は誰ひとりとしていないほどです。また人は自分の人生の歩みの中でどの方向、どの道に向かって歩んでゆくべきかという重荷があります。歩むべき道を決める前に恐ろしい悪の道に誘われてその道に進み後悔の涙を流した人が多くいます。
さらに聖書が示す罪の重荷があります。最初に罪を犯したアダムの子孫として生まれた私たち人間は生まれた時より罪があり罪の悔い改めなく生きるならば罪を重ね最終的に罪のさばきを神より受けなければなりません。このような様々な人間の重荷を解き放ち、人が神のみこころの善の道に歩むためにこの世に来て下さった方がイエス・キリストなのです。
誰でも重荷を持つ者は他の誰ではなく、イエス・キリストのもとに行けば、重荷から解き放たれて新しい善の道を歩むことができるのです。あなたが聖書のことばが真実であるか、自分の身をもって実験してみてはどうでしょうか。イエス・キリストはあなたを重荷から解き放ち安息を与えてくださいます。
**************ことばの光**********4月24日
イエス・キリストの証人に任命されたパウロ
わたしがあなたに現われたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなた
示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
使徒の働き 26:16
キリスト者をダマスコに行って捕え迫害しようとしていたパウロに復活されたイエス・キリストが現われ、パウロのこれからのなすべきこととしてイエス・キリストの証人に任命しました。復活したイエス・キリストのことばを真剣に受け入れたパウロは、今までの罪を悔い改め、イエス・キリストを主、救い主と信じてから地上の生涯が終わるまでイエス・キリストの証人として生きました。
パウロがイエス・キリストの証人としてなしたことは、イエス・キリストとの交わりを欠かさず、イエス・キリストの十字架と復活の福音をまだイエス・キリストを知らない人々に証しすることでした。そのことによってイエス・キリストの福音を聞いた人々は目が開かれ、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰り、イエス・キリストを救い主と信じる信仰により罪のゆるしを得、永遠の命など神が信じる者に与える祝福を受けることができたのです。イエス・キリストの証人として生きることは、すべてのキリスト者が、イエス・キリストから求められているのです。
*************ことばの光********4月17日
自ら近づかれた復活の主
話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。 ルカ 24:15
主イエス・キリストが十字架にかけられた後、息をひきとられた後、アリマタヤのヨセフの願いが受け入れられ、主イエス・キリストはアリマタヤのヨセフが新たに造った墓に葬られた。この時点で弟子たちの誰ひとり主イエス・キリストが復活するなどと思っていなかった。弟子たちは主イエス・キリストに出会う前に従事していた職業をも打ち捨てて主イエス・キリストに自らの人生をゆだねてひたすら主イエス・キリストに仕えてきたのに主であり師である主イエス・キリストが死に葬られたが悲しみにくれていただけでなく生きる使命を失って前に進む力もなくうずくまっていた。弟子たちの二人の者は、失意の中で自らの故郷に帰って新しい道を探そうとしてエマオに向かっていた。その失意の二人に近づかれ話かけられたのは復活した主イエス・キリストだった。主イエス・キリストは二人に聖書を説き明かされた。二人は主イエスをエマオの家に招いて主イエス・キリストも家に入り、主イエス・キリストがパンを取り神をほめたたえて彼らにパンを裂き渡された。彼らの目が開かれ彼らは主イエス・キリストが復活したことがわかり急いでエルサレムに帰り復活した主イエス・キリストのことを他の弟子たちに報告した。悲しみと失意に沈んでいた弟子たちに喜びと希望が与えられ、復活した主イエス・キリストより示された新しいビジョンに向かって歩み始めた。
*************ことばの光*******4月10日
苦難の祈り
わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。
マタイ 26:39
十字架にかかる前イエス・キリストはゲッセマネの園に内弟子ペテロ、ヨハネ、ヤコブをつれて祈りに行った。三人の内弟子から離れたところで祈りだした。父なる神より示されて十字架にかかって人々のための身代わりの死をとげなければならないことはわかっていたが死をとげてしばらくの間神の臨在のない暗黒の場で過ごさなければならない苦しみを思うと切々と悲しみがこみあげてきた。その苦しみの中でとっさに出た祈りは、「わが父よ、できるなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。」という祈りだった。
これまで一瞬たりとも父なる神との幸いな交わりを欠かしたことがなかったイエス・キリストは十字架の死後の父なる神との交わりのない暗黒のひとときは耐えられないものだと思われたので、できたら十字架にかかる道をはずしてくださいと願ったのだ。
しかし、イエス・キリストの祈りは十字架身にかかる道をはずしてくださいで終わらず「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」の祈りが父なる神に対してささげられた。
ルカの福音書によるとイエス・キリストが苦闘の祈りをしていると天よりの御使いが、イエス・キリストを力づけたと記しているがイエス・キリストも力をいただいて祈るうちに、父のみこころである十字架で身代わりの死をとげることが神のみこころであり、その道に従う確信を得て、祈りを終え十字架への道に進むために立ちあがった。
十字架による救いはイエス・キリストのみこころに服従する祈りがあったからこそ与えられたものである。
*************ことばの光********4月3日
目を覚まして待ち望め
ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。
マタイ 24:42
主イエス・キリストは弟子たちにご自身が終末の日、かつて地上においでになったように再びおいでになることを語られました。主イエス・キリストを待ち望む者はどのような姿勢で待ち望むべきでしょうか。
まず主イエス・キリストは必ず来られるという確信をもって待ち望むことが大切です。次に終末の日に主イエス・キリストが来られるからといって、現在従事している務めを放棄して待つということではなく、与えられている使命、仕事を忠実に行ないつつ主イエス・キリストを待ち望まねばなりません。
パウロはテサロニケの教会の中に終末の日が近いと考えて、仕事をやめた者たちがいたことを知り、日々の仕事を忠実にしながら主イエス・キリストを待ち望むように教えさとしました。
さらに終末の日に来られる主イエス・キリストを待ち望む者は、油断せず目を覚まして使命、任務に励まなければなりません。目を覚ましていない状態とは、どっぷりと世俗的関心事に心奪われてしまって神に心を向けることがおろそかになり悪魔の働きやすい状態になってしまい、ついには大切な信仰をも失ってしまうことになることもあるからです。そうならない為には信仰者の基本である神との交わり、祈り、神のことばである聖書を日々読み心に貯えること、教会の礼拝に出席し、キリスト者の交わりを深めることにつとめることです。
「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」 コロサイ 4:2
*************ことばの光******3月27日
聖書が示す神
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。
使徒の働き 17:24
パウロがアテネに行った時、パウロが信じる神がどのような神なのかをアテネの市民に知ってもらうためにメッセージを語った。パウロが信じる神は天地万物を創造した創造者である。創世記に「はじめに神が天と地を創造された。」(創世記1:1)と記されてあるとおりである。神が創造主であるので人間も含めすべて造られたものは被造物であって被造物と創造者の間は越えがたい境界があり、ある宗教のように人間が死後神になることはない。
パウロが信じる神は創造された天地と人間を支配し導く神である。すなわち歴史を導く神である。
歴史を導く神は、御自身のひとり子、イエス・キリストを世界に遣わして、人の罪をゆるし神との交わりを持つようになるために、イエス・キリストを十字架につけて身代わりの死をとげさせたが三日目にイエス・キリストをよみがえらせ、イエス・キリストが人を罪から救う救い主であり神であることを立証した。パウロが信じる神は人を罪から救う救い主なる神である。
パウロが信じる神は世界に終末の時が来ると、世界と人をさばくさばく神である。
パウロが信じる神に対してさばきをまぬがれる道は、まず創造者であり歴史を導く神であり救い主なる神、終末のさばき主である神を知り、自らの罪を悔い改めて神が遣わしたイエス・キリストを救い主を信じることである。この道はすべての人に開かれている。
*************ことばの光****** 3月20日
心を洗いきよめよ
目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。
マタイ 23:26
イエス・キリストがマタイの福音書24章の初めから終わりに至るまで、ことばを尽くして律法学者たち、パリサイ人たちにきびしく叱責、非難しているのは、彼らを倒すためではなく、イエス・キリストの警告のことばを聞いて、悔い改めてイエス・キリストを救い主を信じて従うものとなってほしいからであった。
律法学者、パリサイ人たちはイスラエルの民が神のことばに従わず偶像を拝んだことによりバビロン捕囚という苦難を受けた歴史から学んで、神のことばを一点一画に至るまで熱心に守ることこそ神の祝福を受ける道と心得て自らも熱心に神のことばを守ろうとしただけでなく、民にも守るように教えた人たちであった。彼らの志は良いものであったが、神のことばを完全に守ることのできない人間の罪深さ、弱さを理解せず、神のことばを守ることを自らにも民にも強要した。そのことにより彼らの信仰生活において、ともかく人の目に神のことばを守っているように見せることが重要なこととなり、目に見えない神を仰ぎ心の向きを神に注ぐ最も大切な信仰の在り方を見失うこととなっていた。
イエス・キリストはそのことを見抜いて、杯(心)の内側をきよめよ。そうすれば外側(目に見える人の行ない)もきよくなる(マタイ 23:26)と彼らに語られたのである。
律法学者、パリサイ人に語られたイエス・キリストのことばは、私たち信仰者に対して語られたことばとして読む時、私たちの信仰生活がイエス・キリストによって警告されていると受け取ることができ、悔い改めて心をきよめてイエスに従ってゆくものとなることが求められている。
*************ことばの光****** 3月13日
油断せず心を見守れ
そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手から逃れたのです。
歴代誌 Ⅱ 16:7
ユダの王アサは父アビヤの後継者としてユダを治めたが王に就任してから主の目にかなうことをなした。アサは父アビヤの時代にあった異教の偶像を取り除き民にもまことの神主を礼拝し主のみことばを守って生活するように勧めた。
エジプト軍が大軍を率いて攻めてきた時、アサはエジプトの大軍に動揺せずまことの神、主に拠り頼み主の助けを求めた。主はアサの信仰と祈りに答えて下さって主の力をもってエジプト軍を退散させた。ユダの王に就任してから主に従い主の目にかなうことをなしてきたアサ王だったが死に至る五年前の時より彼の信仰はゆらぎだした。
北イスラエルのバアシャ王が突如ユダの国に侵略しようとしてユダの国のラマの町を占領して防備を強固にした時、いつものアサ王なら主に拠り頼み主に祈るところだが、この時のアサ王はアラムの王に対して主の宮からとりだした多額の金と銀を渡すかわりに北イスラエルと戦うことを求めた。主に拠り頼まず、人の力と富に拠り頼んだ。アラムの王は多額の金銀を受け取って北イスラエルに戦いをいどみ、北イスラエルを打ち負かした。今までは主に拠り頼んでいた信仰者アサは何故主に拠り頼まなくなったのだろうか。おそらく今までの信仰の結果に満足してしまい、常に主を求め祈ることを止めてしまった心の油断が主に拠り頼まず人と富に拠り頼むようになった原因かもしれない。「何を見張るよりもあなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」(箴言 4:23)
*************ことばの光****** 3月6日
何が一番重要な教えか
先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。イエスは彼に言われた。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
マタイ 22:36~37
パリサイ派の律法学者がイエス・キリストのもとに来て、「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と尋ねた。その質問に対してイエス・キリストは申命記6章5節のことばを引用して、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と答えられた。さらにレビ記19章19節のことばを引用して「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」という二番目に重要な戒めにも言及し、二番目に重要な戒めは一番重要な教えと同じように重要であると語られた。神を全身全霊をもって愛することと隣人を自分自身のように愛することは密接に関わっていて切り離せない重要な戒めであることをイエス・キリストは教えられたのである。
当時の律法学者たちは聖書の戒めを細部に至るまで厳格に守ることが神の祝福にあずかることだと考えていてイエス・キリストからもそのような答えを期待したうえで最も重要な戒めは何かと尋ねたのだが、イエス・キリストは聖書が示す神のみこころは神を愛し、隣人を愛することだとパリサイ派の律法学者に示したのであった。
イエス・キリストが人にとって最も大切な戒めとして示したことは、人の生きる目的が何であるかを示している。ウエストミンスター小教理問答書において人の生きる目的は神の栄光を現わすことであると記しているが、神を愛し、隣人を自分自身のように愛するならば神の栄光を現わすことができる。
*************ことばの光******2月27日
悔い改めて神の国に入れ
ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、「きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。」と言った。兄は答えて「行きます。おとうさん。」と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て同じように言った。ところが、弟は答えて「行きたくありません。」と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
マタイ 21:28~30
イエス・キリストが神殿で祭司長、民の長老らと論争した時、イエス・キリストはある家の兄と弟の行動についてのたとえ話をして祭司長、民の長老たちに彼らの考えを改めるようにさとされた。ある家の父が兄弟に対してぶどう園に行って働いてくれるように依頼した。兄は行きますと言ったのに実際は行かなかった。弟は行きたくありませんと言ったが、思い直して出かけて行った。父の願いを実践したのは弟でした。
このたとえからイエス・キリストは、当時イスラエルの人々から嫌われ、神のことばも守っていなかった取税人、遊女たちはイエス・キリストのことばを聞き行ないを見て罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じたので神の国に入っているが、あなたがた祭司長、民の長老らはたとえ話の兄のように口先では神を信じ従っているようであるが、神が遣わした救い主のことばを信ぜず従わないので神の国に入ることができない。しかし取税人、遊女たちのように罪を悔い改めて救い主イエス・キリストを信じれば神の国に入ることができるから、救い主を拒否する考えを思い直し(悔い改め)て神の国に入れるよう求めよと祭司長、民の長老らに迫った。神の国(天国)に入るために遅すぎることはない。死の直前に罪を悔い改めたため神の国に入ることを保証されたイエス・キリストとともに十字架につけられた強盗のひとりの例のように。
*************ことばの光*****2月20日
敵の前でも豊かにもてなして下さる神
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
詩篇 23:5
ダビデの生涯は敵との戦いの連続でした。少年時代は父エッサイの羊飼いの仕事を手伝う折、獅子、熊、狼が羊をおそおうとあうる時、むちを持ってそれらの動物を追い払いました。
イスラエルの王サウルに召されて仕えるようになった時、戦いに出て行って驚くべき成果をあげました。人民たちのダビデの人気がサウル王にまさった時、サウル王はダビデに嫉妬し、やがてダビデの命をねらうようになりました。寸前のところで命をおとしそうになった時、神はダビデの親友ヨナタンによってダビデを救いサウル王がダビデが隠れていた洞窟に入って来た時も御翼による守りによってダビデは救い出されました。
ダビデに嫉妬するサウル王の宴会においても、神はサウル王によって与えられる食事を制限されずダビデに対して豊かにあふれるばかり供給されました。神は敵の前においても神に信頼する者に対して豊かに供給してくださる方です。
詩篇23篇が記された年代は定かではありませんがダビデの晩年近くに記されたと考えるとこの詩篇が語ろうとしていることと合致するように思えます。
ダビデが自らの歩んできた信仰をふり返った時、神がさまざまな試練、敵との戦いの中で、死の陰の谷を歩む際にも、常にダビデと共にいてダビデを導き、敵の前でも豊かに必要なものを与え、敵に打ち勝たせてくださったことを思い起こし、神に感謝をささげてこの詩篇23篇を記したのではないでしょうか。神に信頼する者、神と共に歩む者に必要なものを豊かに供給してくださる神をほめたたえます